ドイツ文学者の中野京子が語る「怖い絵」って何だろう?怖い、切ない、美しい…名画に潜む歴史と浪漫、恐怖とスキャンダルを読み解く

「怖い絵」と聞いてどんな絵を思い浮かべますか。

殺人、事故、幽霊でしょうか。穏やかに見えても恐ろしい事件や悲しいできごとが描かれている絵画もあります。著者でドイツ文学者の中野京子「絵画は感じるよりも知るほうがおもしろい」と語り、「怖い絵」をテーマに描かれたできごとの奥深さ、画家の人生、歴史の流れへと読者を引込んでいきます。

実話、神話、幻想、「怖い絵」でドキドキしよう

左から:『怖い絵 死と乙女篇』(2012年08月刊 角川文庫)、『怖い絵』(2013年07月刊 角川文庫) ここで紹介する書籍はすべて中野京子の著書です。

展覧会や画集で見た名画や有名画家の絵画が、物語を知ると一気におもしろくなります。1冊の本には、1点の絵画から引き出される短いストーリーが20篇くらい掲載されているので、気軽に読み進めて、続編が読みたくなります。

『怖い絵 死と乙女篇』から内容を覗いてみましょう。

表紙「皇女ソフィア」(レーピン 1879年 トレチャコフ美術館)は、最もよく知られたロシアの歴史画のひとつです。ロマノフ家2代皇帝の皇女(娘)ソフィア(1657~1704年)は異母弟ピョートル大帝との争いに敗れて幽閉され、尼僧になるよう命令が下った場面です。

本文に「この顔、この姿、この気魄であればこそ、ピョートル大帝という一代の英雄に対抗できた」とあり、ソフィアの見開いた目、堂々とした姿から「怖い絵」という言葉に納得できます。縦2メートルのこの絵画の前に立ったときの威圧感を想像してみてください。

ボッティチェッリ「ヴィーナスの誕生」(1485年頃 ウフィツィ美術館)

「ヴィーナスの誕生」はボッティチェッリ(1444/45~1510年)が等身大のギリシャの神々を描いた最高傑作。

中央にはホタテ貝の上に立つ美の女神ヴィーナス、右からは精霊が薔薇色のガウンを着せかけ、左からは西風と妻の花の女神が春の息吹を吹きかけています。美しいこの絵も「恐い絵」なのです。ヴィーナスの父ウラノスは、息子(ヴィーナスの兄)サトゥルヌスに大鎌で殺されて海に投げ込まれました。血にまみれた父親の体が海水と混じりあい、白い泡となってヴィーナスが生まれました。

フュースリ「夢魔」(1781年 デトロイト美術館) 

タイトルから怖い「夢魔(むま)」は、ベッドにのけぞって眠る女性、腹の上に座る二本角の怪物、カーテンから覗く不気味な目の馬を描いています。フュースリ(1741~1825年)は古典や神話などを主題に「人間の深層心理―恐怖、妄執、憎悪、強迫観念―を幻想的に描くことにあった」と記し、フュースリに恋焦がれた女性の娘メアリー・シェリーが『フランケンシュタイン』(死体をつなぎ合わせた怪物をめぐる物語)を執筆したことも紹介されています。

「怖い絵」展は長蛇の列、68万人が来場

「恐い絵」展チラシ左から:兵庫県立美術館、上野の森美術館 2017年開催

作品はドラローシュ「レディ・ジェーン・グレイの処刑」(1833年 ロンドン・ナショナル・ギャラリー)『怖い絵』の単行本刊行から10年後の2017年、「怖い絵」展が東京と兵庫で開催され68万人を動員しました。「怖い絵」シリーズで取り上げた約80点の絵画・版画を6章に分けて展示しました。

最終章にチラシ掲載の「レディ・ジェーン・グレイの処刑」があり、金色の額に縁どられ、縦2.5メートル、横3メートル、大きさに圧倒されます。

中央のレディ・ジェーン・グレイは白い絹のドレスが光を放ち、柔らかそうな腕が幼さを、ゆっくりと指を開く手が恐怖を伝えています。レディ・ジェーンはイングランド初の女王として9日間在位しましたが、野心をもつ実父と舅、カトリックとプロテスタントの抗争に翻弄され、16歳で果てたのです。  

描いたドラローシュ(1797~1856年)はフランスの画家、この絵画は1833年に発表され大評判になりました。その後、テート・ギャラリーに収蔵されるも1928年のテムズ川の氾濫で行方不明、1973年に発見されてロンドン・ナショナル・ギャラリーで公開されると多くの来場者を集めました。

チラシでは中央部のみですが、「レディ・ジェーン・グレイの処刑 The Execution of Lady Jane Grey)」全図はロンドン・ナショナル・ギャラリーのWebサイトをご覧下さい。
https://www.nationalgallery.org.uk/paintings/paul-delaroche-the-execution-of-lady-jane-grey

『怖い絵のひみつ』(2017年7月刊 角川書店)、『もっと知りたい「怖い絵」展』(2019年11月刊 角川書店)

『怖い絵のひみつ』は、展覧会、文庫本、単行本と「恐い絵」の世界をまるごと楽しむためのガイドブック的なもの、『もっと知りたい「怖い絵」展』では展覧会開催の経緯や関係者の熱い想いも紹介しています。

音楽と絵画の両方を楽しむ「怖いクラシックコンサート」

「怖いクラシックコンサート」チラシ 2021年9月19日、東京文化会館

「怖い」をテーマにクラシックと絵画とを結びつけて両方を楽しむ欲ばりな「怖いクラシックコンサート」が2021年9月に上野の東京文化会館で開催されました。中野京子が監修と解説を担当し、舞台で曲と絵画の関連を紹介しました。演奏は東京フィルハーモニー交響楽団と日本の第一線で活躍するオペラ歌手、舞台上の大スクリーンには絵画が大きく映し出されました。

ベラスケス「王女マルガリータ」(1654年頃 ルーヴル美術館) 

1曲目はフランスのラヴェル作曲「亡き王女のためのパヴァーヌ」、ホルンの悲しげなメロディで始まり、クラリネット、オーボエに引き継ぎ、ハープをかき鳴らす音が重なりました。「亡き王女」は王妃であるマルガリータではなく、遠い昔に亡くなったどこかの王女のこと、パヴァーヌとは16~17世紀にヨーロッパ宮廷で行われた舞踏のことです。

当時子供用の服はなく、絵画の中のマルガリータは、まるで拷問のように大人用のドレスをコルセットで締めつけて着用しています。マルガリータのハプスブルグ家は血縁が濃く、体が弱い人が多かったのですが、マルガリータも母の弟で父のいとこと結婚し、出産時に21歳で亡くなりました。

2曲目は、イタリアのプッチーニ作曲のオペラ『蝶々夫人』より「かわいい坊や」、外国人の夫が帰国し、自殺する蝶々夫人の悲しみを取り上げています。歌い終わったあとの歌手の涙も印象的でした。チラシの「怒れるメディア」との関連です。

続いてムソルグスキー:交響詩「禿山の一夜」とファーレ「サバトに赴く魔女たち」、ビゼー:オペラ『カルメン』より「闘牛士の歌」とゴヤ「闘牛士」のエッチング、アンコールは、サンサーンス「死の舞踏」とブリューゲル「死の勝利」でした。

『大人のための「怖いクラシック オペラ篇」』(2021年3月刊 角川文庫)
表紙はドラクロア「怒れるメディア」(1838年 リール市美術館)

『大人のための「怖いクラシック オペラ篇」』の表紙もコンサートのチラシと同じ「怒れるメディア」です。物語は紀元5世紀頃のアジア、コルキスの女王メディアはギリシャの英雄イアソンを助け、結婚しました。しかし、ギリシャに戻ると外国人のメディアは妻と認められず、イアソンは別の女を妻に迎えます。

本作は、メディアが自分の子どもを殺して夫に復讐しようとする場面です。狂気の目、子どもの涙、衣の赤い裏地は流血を思わせます。

同書はドラマ仕立てで、入社2年目の男性が芸術に詳しい先輩女性からオペラを紹介してもらう設定です。椿姫、カルメン、蝶々夫人など、タイトルだけは知っているという方には特にお勧めです。また、CD『怖いクラシック』(2021年4月 ユニバーサル ミュージック)は、中野京子が監修し、コンサートで演奏した曲を含むクラシックの名曲と関連する絵画を中野自ら選び、解説文も執筆しています。

CD『怖いクラシック』
https://www.universal-music.co.jp/p/uccs-1294/

「中野京子と読み解く 名画の謎」シリーズ

左から:『中野京子と読み解く 名画の謎 ギリシャ神話篇』(2011年3月刊 文藝春秋)『中野京子と読み解く 名画の謎 旧約・新約聖書篇』(2010年12月刊 文藝春秋)

『中野京子と読み解く 名画の謎』シリーズは、テーマに沿った絵画を集め、1点を大きく掲載して、矢印で示した部分に小さな文字で説明を載せています。

聖書とギリシャ神話は西洋絵画を知る基本のテーマ、聖書はストーリーの順に、ギリシャ神話はゼウス、ヴィーナス、アポロンを中心に読み解いています。

左から:『中野京子と読み解く 名画の謎 陰謀の歴史篇』(2013年12月刊 文藝春秋)
『中野京子と読み解く 名画の謎 対決篇』(2015年7月刊 文藝春秋)

この2作は古代から20世紀までの人物をテーマにしています。「陰謀の歴史篇」の表紙はドラローシュ「ロンドン塔の王子たち」(1830年 ルーヴル美術館)で、幼い兄弟がロンドン塔に閉じ込められた場面。兄弟は叔父のリチャード3世に殺され、リチャード3世はシェークスピアの戯曲により悪役のイメージが定着しました。ところが歴史が検証されると、リチャード3世は善政を行い、当時の人気も高かったことがわかりました。

王家の物語を読み解く「12の物語」

「ロンドン・ナショナル・ポートレートギャラリー所蔵KING&QUEEN展-名画で読み解く 英国王室物語-」2020年 上野の森美術館

展覧会ではイギリス王家の肖像画や写真など約90点で約500年の歴史を辿りました。看板の左端は、現在95歳の女王「エリザベス2世」が即位した(当時25歳)1952年に撮影されて彩色された姿です。看板の中央はイギリスの黄金期を築いた《エリザベス1世(アルマダの肖像画)》(作者不詳、在位1558~1603年)の肖像です。

中野京子は同展でもナビゲーターを務め、解説をしています。著書『名画で読み解く イギリス王家 12の物語』(2017年10月刊 光文社新書)が展覧会の公式参考図書に指定されました。

『名画で読み解く ロマノフ家 12の物語』(2014年7月刊 光文社新書)

ヨーロッパの王室をテーマにした『名画で読み解く 12の物語』(光文社新書)は2021年10月現在、全5点が出版されています。華麗で優雅と思われている王家の人々が歴史に翻弄される過酷な運命を、それぞれ12の名画を中心につづり、「怖い絵」シリーズの物語がつながっていきます。
『ハプスブルグ家』(2008年8月刊)、『ブルボン王朝』(2010年5月刊)、『プロイセン王家』(2021年5月刊)。

まだまだ続く、名画を読み解くシリーズ

左上から時計まわりに:『新 怖い絵』(2016年7月刊 角川書店)、『中野京子と読み解く 運命の絵 もう逃れられない』(2019年1月刊 文藝春秋)、『画家とモデル』(2020年3月 新潮社)、『美貌のひと 歴史に名を刻んだ顔』(2018年6月刊 PHP新書)

名画の謎は尽きず、中野京子の筆は止まりません。『美貌のひと 歴史に名を刻んだ顔』の表紙(クラムスコイ「忘れえぬ女(ひと)」1883年 トレチャコフ美術館)は2009年、2018年にBunkamuraザ・ミュージアムの展覧会に来日し、深い眼差しが忘れがたい肖像画です。

中野京子は雑誌などに連載して単行本を出版し、文庫版には連載を加筆修正し、さらに新作を追加している場合もあります。同じ絵画や画家を取り上げても、テーマが異なり、内容は深くなっています。絵画を読み解くおもしろさが止まらなくなります。作家や画家が書いた「解説」、著者の「あとがき」も必読です。

参考情報

中野京子の「花つむひとの部屋」
https://blog.goo.ne.jp/hanatumi2006

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