8月に日本顔学会 関西支部 第4回研究会「人を見た目で判断すること:我々は 『ルッキズム』 をどのように捉えるべきか?」に参加しました。
人を見た目で差別することは許されない。
外見で人を判断したり、外見重視で人を評価する「ルッキズム(Lookism)」という概念があります。日本では、「外見重視主義」「外見至上主義」と訳されている「ルッキズム」。
外見は偏見や差別も生みやすく、容貌や容姿を理由に差別的な扱いを受けることへの反発は当然であり、近年、注目されています。
しかし、人間は外見で判断しようとする。
その一方、私は「外見(顔)でその人がどういう人かを判断する観相学」をやっています。また、私に限らず、人はみな相手を外見で判断しようとしています。
それについては、【顔面学講座⑯】 なぜ人間は相手を外見で判断するのか? 顔から見抜こうとする理由 を読んでいただくとして、上記研究会で聴いた講演や、私が講師としてお話をさせていただいた「化粧文化研究者ネットワーク 第64回研究会」【観相学・骨相学から顔学へ。人類(と私)の顔研究の歴史を振り返る。】での「質問」に答える中で思ったことを整理して、「ルッキズムを越えた生き方」を提案します。
8月5日の日本顔学会 関西支部 第4回研究会では下記の3つの講演がありました。
「美容からみたルッキズム- 美容はルッキズムを助⾧しているのか-」
日本顔学会 会⾧/武庫川女子大学薬学部客員教授 菅沼 薫 先生
「SNSとSDGsの狭間で- Z世代のルッキズム -」
甲南女子大学 教授 米澤 泉 先生
「ルッキズムと顔学 - パフォーマンスという視点 -」
日本顔学会 副会⾧/東北大学大学院文学研究科 教授 阿部 恒之 先生
見た目が怖そうな人には近づかない。
菅沼先生の講演の中で印象に残ったのは、
親が子供に「見た目が怖そうな人には近づかない」と教育していることで、これは昔からある話です。
外見で人を判断しているわけですが、差別しているわけではなく、感覚的に怖そうな人を避けるのは、人間の本能であり、人間の知恵とも言えます。
危険なものを避け、何よりも身の安全を第一に行動することは、体も小さく力も弱い子供たちにとって大切な教えです。
「君子危うきに近寄らず」という古くからのことわざもありますよね。
そして、菅沼先生からは「自己肯定感が大切」という話もありました。
「ルッキズム」という言葉はいつどのようにして生まれた?
米澤先生の講演では、ルッキズム問題の始まりは「1970年代〜 肥満に対する差別への抗議運動」「1990年代から強まった外見至上主義社会への反動」というお話がありました。調べてみたところ、1960年代にアメリカで始まった肥満差別をなくそうという「ファット・アクセプタンス運動」という市民運動が始まりのようです。
これを聞いて思いました。昔からアメリカでは「肥満の人は出世できない」と言われていました。これって「ルッキズム」というより、「自分の体重をコントロールすることもできない、自己管理もできない人は、管理職に向かないと判断して管理職に昇進させない」というだけですよね。
自己管理もできない人が、それを差別問題にすり替えているのが、ルッキズム問題の始まりだと私は解釈しました。
アメリカという病んだ国。
今年6月にもプラスサイズの女性が怒りのクレーム「飛行機内の通路が狭いのは『差別』」「もっと広くするべきだ」と主張する動画が話題を呼んでいるとアメリカ「ニューヨーク・ポスト」紙が報じました。
「プラスサイズ」とは、女性用の大きめのサイズ。それも現代の「痩せろ、痩せろ」運動基準からしたら大きめのサイズで「ふくよか」や「ぽっちゃり」の人向けサイズの意味です。
映像を見ましたが、クレームを入れているのは「プラスサイズの女性」ではなく、「常識を逸脱した肥満の女性」でした(現代のアメリカではこれが当たり前になっているのかもしれないけど)。
自然界の生物では考えられない超肥満症という病気の動物(ヒト)が、特にアメリカという病んだ国で大量発生しているに過ぎません。
自然界の生き物として間違った生き方をしていると思いますし、これが「知恵ある人」を意味するホモ・サピエンスの生き方とは思えません。
解釈の仕方で人生は変えられる。
「飛行機内の通路が狭くて通れない」と思ったならば、航空会社に責任を求めるのではなく、「ああ、自分は太り過ぎだ。ここまで異常に太ってしまったのか。ヨシ、痩せよう!」と自分を奮起させる材料にすべきです。
生き様が顔に表れるという考え方。
阿部先生の講演では、努力して学力を上げていい大学へ、努力してオリンピックで金メダルのように、おしゃれやメイクによって外見力を上げるのもパフォーマンスという考え方。
「20歳の顔は自然から授かったもの。30歳の顔は自分の生き様。だけど50歳の顔にはあなたの価値がにじみ出る」(ココ・シャネル)
「顔は履歴書である」(大宅壮一)
などの名言があるように、生き方が顔に表れ、生き方によって自分の外見の価値を上げていくことは可能です。
「内面を磨くと外見も美しくなる」とも言われます。「自信のある顔はいい顔」とも言います。
身体能力だってDNAである程度決まっていても努力によってパフォーマンスを上げられるように、顔や体格もDNAである程度決まっていても、努力によってパフォーマンスを上げることが可能であると私は考えます。
顔と健康もパフォーマンス、人生、生き方もパフォーマンスです。
外見で人を判断する観相学は「ルッキズムのど真ん中」という声もありますが、私の観相学はむしろメディアによって作られた(決めつけられた)美の基準へのアンチテーゼにもなっています。
美にはいろんな美がある(美の多様性)ことを示している私の活動は、ルッキズムによる差別を誘発する「過剰な美容整形を推進する経済的プロモーション」へのアンチテーゼです。
自分の顔は自分で変えられる。
顔は変化するものです。「顔」は生き物です。
子供は叱られ貶されて育った子よりも、褒められてのびのびと育った子のほうが、愛される明るい子に成長します。
顔も同じです。
あなたの「顔」は、持ち主であるあなたから愛されることで美しく変わっていきます。
最近は「親ガチャ」なんていう、どんな親から生まれてくるかで人生が決まってしまう解釈がありますが、「親からもらった唯一無二の自分の顔」を生き方によってよりよくしていくのが、人間らしい生き方だと思います。
顔の骨格(輪郭)、目の形、鼻の形、口の形、パーツの配置は簡単には変わりませんが、人とは違う顔の特徴を自分の個性だと思って生きるのか、欠点だと思って生きるのかによって、あなたの顔はまったく変わってきます。
自分の顔を愛し、自分の顔に自信を持っていると、不思議と個性がよりよく輝き、独特なバランスの調和のある顔になってきます。
パーツ1つ1つを見ると変わっていないようでも、顔つきが変わってくるのです。
自分の人間性を高めることで自分の顔をいい顔にしていければ、それが人にも伝わっていい社会になると信じています。
自ら顔を創ることによって、自らの人間性を善くする道。
自分で自分の顔を創ることによって、自分自身をよりよく創っていく道。
それが、顔創道(がんそうどう)です。
「ふくろう流顔訓13箇条」」の最後にある「自分の顔は自分で創れ!! 」これが、私が一番伝えたいメッセージです。