古い物と新しいもの、西洋と日本とがぶつかり合い、ひしめき合った、安土桃山時代。この日本史上、最も豪壮で、エネルギーに溢れた時代を代表する「顔」としては、織田信長や豊臣秀吉などが挙げられるでしょう。
そして、「顔」と言うべき絵画は、何と言っても、この狩野永徳の「唐獅子図屛風」ではないでしょうか。
縦2メートル、横4メートルを超す画面いっぱいに描かれた二頭の獅子は、迫力満点。背景の金地とも相まって、豪快で忘れがたい印象を見る人に残します。
この絵の作者、狩野永徳は、本作に見られるような「大画様式」を編み出し、時代をリードした人物です。
信長・秀吉と、二人の天下人に仕え、名実共に「天下一の絵師」となった彼でしたが、やがてその地位を狙う、下剋上の刃が彼に迫ってきます。
今回は、安土桃山時代を代表する絵師・狩野永徳と、彼からもっとも恐れられたライバル・長谷川等伯の二人について、現在、東京国立博物館で開催中の特別展「桃山―天下人の100年―」(~11月29日)の出品作品と共に簡単にご紹介しましょう。
①狩野永徳、「天下一の絵師」への道
狩野永徳は、1543年、京で生まれました。
狩野家は、室町幕府に仕える絵師の家系で、絵師集団・狩野派の中心でもあります。
4代目にあたる永徳は、幼い頃から才に恵まれ、次代を担う「ホープ」として、英才教育を受けて育ちます。9歳の時には、早くも将軍・足利義輝に拝謁(はいえつ)するという栄誉に浴します。
彼が若干23歳の時に、義輝の注文を受け、門人たちを率いて制作したのが、「洛中洛外図屛風」です。
そんな永徳に、さらなる飛躍のきっかけをもたらしたのが、織田信長です。
二人の出会いが、いつどのようなものだったかはわかっていません。信長は永徳の才能を気に入り、御用絵師として安土に招きます。
そこで永徳に待っていたのは、安土城の内部を飾るため、100枚もの障壁画を描く仕事でした。
これまでにない大舞台である一方、万が一描いた絵が気に入られなければ、死を賜る危険もある。まさに、絵筆を武器にしての、信長との真剣勝負と言っても良かったのではないでしょうか?
しかし、永徳はプレッシャーに押し潰されることはありませんでした。
むしろそれを糧に、そして信長という存在に触発されるようにして、これまでにない全く新しい絵画の様式(スタイル)を生み出すのです。
それが「大画様式」です。
これは、縦横数メートルの画面の中いっぱいに、樹や獅子などのモチーフを大きく描き出すのが特徴です。
メインモチーフの周囲は余白として残すか、塗りつぶしてしまうため、モチーフの存在感はくっきりと際立ちます。
シンプルで、それ故に力強く、時に画面の枠を越えて、見る人間に向かって迫ってきかねない存在感。
上の「洛中洛外図屛風」のように、わずか数センチの人間やモチーフを緻密に描きこむ伝統寄りのやり方とは真逆です。
が、それ故に、古い伝統に囚われず、自らの手で時代を作ろうとする信長や、彼の作る新しい時代にぴったりなスタイルである、と言えましょう。
信長の死後、後を継いだ秀吉にも永徳は重用され、大坂城や聚楽第など数多の建造物の内部装飾を手掛けていきます。
また、秀吉に倣った、他の大名たちも永徳に絵を注文するようになります。
このように秀吉を筆頭に、重要人物たちのために絵筆を振るう永徳は、名実ともに「天下一の絵師」になったのです。
②長谷川等伯、台頭
「天下一の絵師」、すなわち押しも押されぬナンバーワン。
それは一見華やかで輝かしく思えます。
が、膨大な注文を抱え、毎日毎日、「昼も夜もなく」描き続ける生活に、永徳の心身は容赦なく削られていきます。
同じ頃、京では、「天下」を、永徳に対する「下剋上」を狙う一人の男が着々と力をつけつつありました。
長谷川等伯(1539~1610)です。
京から遠く離れた能登国に生まれ、若い頃は仏画を描いて暮らしていました。
地元では名声を得ていましたが、その地位に安住せず、30代で京に出てきます。
絵師として、もっと上を目指したい!
やるならもっと広く大きな場所で、勝負に出たい!
等伯の中には、そのような思いが燃えていたのではないでしょうか。
ですが、京には既に永徳の狩野派があります。
血筋と才に恵まれたサラブレッドの永徳に対し、北陸のローカル絵師・等伯の不利は否めません。
ですが、彼は諦めませんでした。
「打倒・狩野派!」を目標に、粘り強く、十年以上もの間、努力を積み重ねていくのです。
中国の絵画や室町時代の絵、そして、永徳によって生み出され、流行の最先端となっていた「大画様式」まで、幅広く学び、自分の腕を磨きます。
しかし、いかに腕が立つとしても、一人でこなせる仕事量には限界があります。
彼は、狩野派に倣って門人の育成にも力を入れ、大規模な仕事にも対応できるシステムを整えました。
これらを武器に、等伯は注文を受け、千利休をはじめ自分の支持者(ファン)を増やしていったのです。
こうした積み重ねを十年以上にわたって続け、力と実績、人脈を手にした等伯は、1590年、いよいよ、永徳に対して下剋上を挑みます。
③1590年 等伯からの下剋上に対し、永徳は・・・
バトルの舞台になったのは、秀吉が新たに造営した仙洞御所(せんとうごしょ)でした。
その内部装飾を、本来は狩野派だけが請け負うはずだったのですが、仕事の一部を自分たち長谷川派にまわしてもらおう、と等伯が運動したのです。
明らかな狩野派への挑戦です。
永徳は焦り、そして恐れました。
等伯たち長谷川派が、今回を足掛かりにして、狩野派の追い落としを図るのは明白でした。
このままでは、「天下一」の名前も、天下人の御用絵師という立場も、永徳が、これまでの人生をかけて築いてきたもの全てが奪われてしまう。
かつて信長を倒したのと同じ「下克上」の刃は、今や永徳自身に迫っていました。
そんなことを許してたまるか・・・!
永徳は、必死にコネを駆使して、抗議を申し入れます。
そのおかげで、等伯の割り込みを防ぐことには、どうにか成功します。
が、仕事につぐ仕事で疲弊していた永徳に、この出来事が与えたダメージは小さくありませんでした。
一か月後、永徳は仕事中に倒れ、そのまま数日後に亡くなってしまうのです。
享年48歳でした。
④二人それぞれの生きた証
信長、秀吉、と当代きっての英雄たちに、その才を愛され、「天下一」の地位を手にした永徳。
しかし、彼の作品の多くは建造物と共に失われ、現代まで残っている点数は10点にも満ちません。
また、「天下一」に登り詰めたがゆえに、それを失ってしまうことへの恐怖も、彼を強く苛んだでしょう。彼がそれから解放されることも、恐らく人生最後の瞬間までなかったのではないでしょうか。
そんな永徳を越えるべく、地道に準備を重ねた等伯。
彼は1590年、御所の仕事への割り込みは失敗しましたが、永徳の死後、再びチャンスを掴みます。
秀吉の造営した祥雲寺の障壁画を、長谷川派で請け負うことになったのです。
完成作品の一部が「楓図壁貼付」です。
彼は、ここで永徳から学んだ大画様式を用いていますが、雰囲気は全く異なります。
メインの大樹のまわりに、繊細に描き出した楓の葉や秋の草花を添えることで、空気を和らげ、優しく柔らかな世界を作り出しています。(同じく大樹をメインに据えた永徳の「檜図屛風」とも比べてみてください)
しかし、完成直後、後継だった息子・久蔵に先立たれてしまいます。
新興の絵師集団のトップとして、一人の父親として、彼の受けた衝撃と悲しみは、想像するに余りあります。
それでも、彼は喪失感を乗り越えるようにして、国宝にも指定されている「松林図屛風」などの作品を生み出していきました。
が、結局「天下一」の夢を叶えることはできませんでした。
永徳も等伯も、立場や条件は異なりながらも、己の才を信じ、絵筆を武器に道を切り開き、必死に生きました。
現代まで残る作品は、まさに彼らの生きた証です。
特別展「桃山―天下人の100年」は、そんな彼らの作品を同時に見ることができる貴重な機会です。
この機会に是非、足を運んでください。
展覧会基本情報
展覧会名:特別展「桃山―天下人の100年」
会場:東京国立博物館 平成館
会期:2020年10月6日(火) ~ 2020年11月29日(日)
展覧会公式サイト:https://tsumugu.yomiuri.co.jp/momoyama2020/
※事前予約制