中尊寺金色堂が上野に!金色堂に託された「平和」の願いとは?

2011年に世界遺産として登録された「平泉」。それを構成する建物の一つ、中尊寺金色堂は、日本国内では国宝建造物としても認定されている。

全てが金色に輝く建物の壮麗さは他に類を見ないが、単に美しいだけではない。その礎にあったのは、一人の男の「平和」に対する強い思いだった。

今回は、東京国立博物館で開催中の『中尊寺金色堂展』に寄せ、金色堂を造営した奥州藤原氏の初代・清衡の半生から語り起こし、この二つとない建物の誕生の物語に迫ってみたい。

奥州藤原氏の始まり

11世紀末、東北地方は、朝廷の威光が及ばず、阿部氏や清原氏ら豪族たちが割拠していた。
特に急速に勢力を伸長していたのが阿部頼時率いる阿部一族で、彼らを警戒した朝廷は1051年、源頼義を大将とする軍勢を送り込んだ。

両者は激突し、戦い(前九年の役)は12年にわたって続いた。
藤原清衡が生まれたのは、1056年、まさにこの戦いのまっただ中だった。父・藤原経清は、平将門と戦ったことで名高い武将・藤原秀郷の子孫、母は阿部頼時の娘だった。

前九年の役において、経清は縁戚である阿部氏について戦っていたが、1062年、朝廷軍に豪族・清原氏が味方したことがきっかけで形勢は一気に朝廷側の有利へと傾き始める。結果、阿部一族は滅亡し、経清もまた捕縛・処刑されたのである。

残された経清の妻が清原氏に再嫁したのに伴い、当時まだ7歳の清衡も清原氏の養子として、清原清衡と名乗るようになった。それから約20年後の1083年、今度は清原氏の所領の相続問題をめぐり、清衡たち三兄弟の間で諍いが生じ、戦い(後三年の役)へと発展する。

そして、義兄や異父弟との約4年間におよぶ戦いを勝ち残った清衡は、奥六郡の実質的な支配者となり、姓も実父の「藤原氏」に戻し、藤原清衡と名乗るようになる。奥州藤原氏の始まりである。

金色堂に託した平和への願い

こうして戦いに次ぐ戦いを生き延びた清衡は、31歳にして東北の実力者となった。が、そこに至るまでに失ったものはあまりに多かった。
幼いころに殺された父と、母方の親族。共に育った義兄や異父弟は後に敵にまわったし、妻子は、彼らとの戦いの中で殺されてしまった。心に負った傷は深かっただろう。だからこそ、生き残った自分の手で、戦いの連鎖を断ち切らなければならない。
これから先、あのような「地獄」が決して生まれないように。二度と自分のような思いをする人間が出ないように。そのためにも、この奥州に、仏教を根幹とする「平和国家」をつくろう。そんな思いが清衡の中には育ち始めていた。
彼は平泉に拠点を移し、京の権力者に馬を贈るなどの根回しも行いながら、理想の国作りに向けての地盤固めを進めていく。北方貿易にも着手して、宋から一切経を輸入もした。
そして、そんな彼の理想を体現する存在こそ、金色堂だった。

金色堂は、彼が平泉に建立した中尊寺を構成する建物の一つで、名前通り、床、壁から縁や軒まで全てが漆を塗った上に金箔を貼って仕上げられており、内部の柱には蒔絵と螺鈿で宝相華文や仏像が表されるなど、当時の工芸技術の粋を集められている。
この壮麗な空間こそは、まさに阿弥陀如来が住まう「極楽浄土」を再現したものと言えよう。

1126年の落慶供養に際し、清衡が自ら読み上げたとされる『供養願文』には、彼の次のような願いが述べられている。
戦乱の中で、失われた夥しい命ーーー父をはじめとする肉親、敵味方両軍の兵士、女性や子供ら非戦闘員、更には、食糧として狩られた鳥や獣たちに至るまで、全ての魂が「浄土」へと導かれ、安らぎを得られるように。
そして、今生きている者たちが、「浄土」の存在を信じられるように。
そして、この東北の地に仏の住まう「理想郷」を現出させたい。
「修羅」の世界を生き抜いた、一人の男の心からの祈りが胸に迫ってくる。

そして金色堂落慶から2年後、清衡は72歳でその生涯を終える。遺体は金箔を張った棺に納められた後、金色堂の須弥壇の内部に安置され、現代にいたっている。

その後

清衡の死後、後を継いだ二代目・基衡のもとで、平泉は都市としての整備が更に進められ、三代目・秀衡の時代に最盛期を迎える。

中尊寺金色堂は、国の理想を体現する存在としてあり続け、歴代当主の遺体を安置する霊廟ともなった。

一族の富と権勢とは、今回の展覧会に出品されている宝物の数々からも伺える。

例えば、こちらは初代・清衡が発願し、二代・基衡が納めた〈紺紙金銀一切経〉は、紺紙に経典を書写したものだが、金と銀で一行ずつ交互に書く、という手の込んだ作りになっている。

また、この〈金光明最勝王経金地宝塔曼陀羅〉では、縦長の紺紙の中央に大きく九重の宝塔が描かれている。が、よく見ると、屋根も壁も全てが経文の文字によって表されている。
これらは、まさに莫大な富と権力あってこそ作りえたものであり、奥州藤原氏の輝かしい栄華を反映していると言えよう。

しかし、1187年、兄・源頼朝に追われる義経を匿ったことから、藤原氏、そして平泉は滅亡へと向かい始める。
秀衡の死後、四代目となった泰衡は頼朝からの圧力に抗いきれず、義経を討伐する。が、その後、今度は義経討伐が遅かったことを理由に自らが頼朝の軍に攻め込まれ、最後は部下の裏切りによって殺される。
こうして、奥州藤原氏の支配は終わりを告げ、中世都市として栄えた平泉も衰微していく。
それから約500年後、この地を訪れた俳人・松尾芭蕉は、往時の繁栄を偲び、あの有名な句を詠んでいる。

「夏草や兵(つわもの)どもが夢のあと」

清衡が平和を願い、東北に築いた「理想郷」は約100年で滅ぼされてしまった。
しかし、金色堂と、そこに託された「平和」への願いは今もなお生き続け、私たちの胸を打つ。

今回の展覧会では、普段は覆堂の中に保護されている金色堂の外観と内部空間が、超高精細8KCGによって、会場入り口の大型ディスプレイ上に、原寸大に再現されている。
清衡が夢見た「浄土」を、是非この機会に体感して欲しい。

展覧会情報

展覧会名建立900年 特別展「中尊寺金色堂」
会期2024年1月23日(火) ~ 2024年4月14日(日)
会場東京国立博物館本館(日本ギャラリー)
休館日月曜日、2月13日(火)
(注)ただし、2月12日(月・休)、3月25日(月)は開館
ホームページhttps://chusonji2024.jp/
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