さて、「浦賀ドック取材レポート」前編では、2021年4月に横須賀市へとに寄付され、今後の一般公開が期待される日本屈指の産業遺構「浦賀ドック」について、地元の郷土史家・山本詔一先生にお話をうかがいながら現地の写真とともにレポートをお送り致しました。
そこで、後半では「浦賀ドック」の近くにある浦賀の歴史を学べる「浦賀コミュニティセンター分館(郷土資料館)」へと移動して、山本先生にインタビューを続行。はじめて浦賀を訪問する人にもわかるよう、浦賀の魅力や歴史の面白さについてたっぷりと教えていただきました。
江戸時代は、造船よりも商売?!中継貿易の基地として栄えた浦賀
ー本日はお忙しい中、浦賀ドックについて詳しくご案内頂き、ありがとうございました。明治以降の急速な近代化を象徴するようなドックの威容だけでなく、穏やかな湾内の風景も印象的でした。
山本詔一先生(以下「山本」と表記):浦賀港は、本当に穏やかです。台風が来ると、漁船や商船はみんな浦賀港に避難しに来るくらいですから。それに、湾内から見える景色もいいですよね。ちょうど向こう側は房総半島で、鋸山が見えているんです。距離も約10kmぐらいしかないんです。
ー漁のついでに行き来できるぐらいの近さなんですね。
山本:だから、浦賀と房総半島は、江戸~戦前頃までは、交流が非常に盛んでした。山本家も、房総半島に親戚がいますから。向こうはイワシ漁を中心とする漁村で、浦賀はそこから運ばれてきたイワシを干して肥料にした「干鰯」(ほしか)を全国へとさばく商業の街でしたから。商売上のつながりから、長い時間をかけて人間関係が作られていったんです。
ー浦賀ドックができる前、江戸時代では浦賀は干鰯問屋が多く立ち並んでいたと聞きました。
山本:そうです。大坂からはいろんな物資が江戸に入ってくるので良かったんですが、江戸から大坂への復路で何を載せるか。そこで、喜ばれたのが、干鰯だったんです。九十九里で採れたイワシを浦賀に運んできて、江戸から大坂へと帰る空船に、どっさりと干鰯を載せる。商人としても、江戸からの帰りに房総半島に立ち寄らなくてもいいので、都合が良いですよね。それで浦賀の干鰯問屋が栄えていくんです。
ー干鰯は、主に何を栽培するために使われたんですか?
山本:木綿です。江戸初期までは、庶民は質の悪い麻を身にまとうのが精一杯で、絹はもちろん、木綿ですら高級品でした。それが、17世紀に入ってから房総半島の干鰯が浦賀経由で流通したことで、関西を中心に木綿の生産量が急増したんです。そこから、肌触りや保温性に優れた綿織物や座布団が一気に普及していったんですね。一種の衣料革命が起きたわけなんですが、そこで大きな役割を果たしたのが干鰯の中継貿易地として栄えた浦賀だったんですね。
ー干鰯の貿易ルートは浦賀経由がNo.1だったんですか?
山本:そうです。そんなに儲かるんだったら、ということで、外房沿いの海路だけでなく、関宿から利根川~江戸川経由で深川へと送られる内陸ルートの流通も発達するんです。そうやって競争が激しくなると、とうとう房総の漁村でその年に採れるイワシを1年分まるごと全部抑える、といった「先物取引による一村買い」なども行われました。来年のイワシはぜんぶうちのもの。そんなやり方でも儲かったんです。だから、浦賀みたいな鄙びた村に、今でいうと年収数十億円クラスの商社が約20軒もありました。浦賀は、江戸時代に三浦半島で最も裕福だったんです。
ー凄い!全然知りませんでした。そういえば、浦賀には「浦賀奉行所」も設置されていたのですね。
山本:江戸湾の入口に位置する浦賀は、国防・海運の要衝だったので、江戸幕府はここを直轄地として、日光や長崎と同じく遠国奉行の一つとして「浦賀奉行所」を設置したんです。
ー浦賀奉行所には、どういった行政上の役割が与えられていたんですか?
山本:幕末までは、江戸市中の米価を安定させるため、江戸に入る物資量を統制・調節する役割を担っていました。上方から江戸へ物資を運ぶ商船は、必ず浦賀沖を通過しますから、ここで全ての船を足止めして船番所で荷物を検査するようになったんです。
ー持ってきて浦賀で留められたら悲惨ですね。
山本:そうしたデメリットもありますが、日本中の各地の船と情報交換ができたので、浦賀に停泊することは、商人にもメリットがありました。火事や台風などの災害情報は、商人にとって特需を掴むチャンスにもなります。江戸へ行けなくても、物資を一番必要としている街へと機動的に動けば、十分利益はまかなえたはずですから。
山本:これが、船番所の模型です。江戸湾へと入ってきた商船を桟橋に横付けにするわけではなく、浦賀の港の真ん中に停泊させるんです。すると、奉行所の指図で浦賀の問屋が一斉に船の検査に行くんです。米何俵、伝票と摘んでいる荷物に間違いありません、ということを確認すると、ここに入っていいって、役人にはんこをもらって、よし、出向してもよろしい、と。
ーずいぶん、効率的なシステムができあがっていたのですね!
幕末以降、黒船来航をきっかけに軍事基地へと変わっていった
ー江戸時代の中期までは商業の街として栄えた浦賀ですが、幕末になるとペリーの来航など、一転して騒がしくなってきますよね。
山本:異国船もペリーが最初じゃなくて、1818年のブラザーズ号からはじまって、ペリー以前にも多くの黒船が浦賀に来航しているんです。でも、幕府は鎖国政策を維持していましたから、あるときは薪と水を与えて穏便に帰ってもらったり、あるときは武力で追い返そうとしました。外国船から江戸を防衛するための最前線として、浦賀奉行所は海防のための軍事拠点になっていったのですね。
ー確か、異国船を砲撃して打ち払ったりもしたんですよね。
山本:そうですね。会津藩によって砲台も築かれ、1837年のイギリス船モリソン号が来航した時、はじめて実弾を撃って追い払いました。
ー大変でしたね、浦賀奉行所は荷物チェックだけじゃなくて、異国船の処理もしなきゃいけない。
山本:だから浦賀奉行所のランクが次第に上がっていったんです。最終的に、幕末には江戸幕府の軍事基地みたいになっていきました。資料にはないですが、戊辰戦争の時に、榎本武揚などもここ浦賀で蒸気船のための石炭を積み込んでから、五稜郭へと旅立っていますから。
ーそういえば、ペリーと日米和親条約の交渉に当たった幕末の志士・中島三郎助(なかじまさぶろうすけ)も浦賀の出身なのですよね。
山本:そうです。東浦賀の東林寺には中島三郎助の墓もありますし、西浦賀の愛宕山公園には、彼の招魂碑も建っていて、熱心な歴史ファンがよく訪れていますよ。
ー愛宕山公園はお花見の名所って、パンフレットに書いてありました。
山本:春は桜がきれいなので、お花見はおすすめですね。ぜひ、お弁当を持って登ってみてください。見晴らしもよく、公園からは浦賀港や遠く千葉方面も一望できます。
ー中島三郎助は、その後戊辰戦争に参加して死んでしまうんですね。
山本:函館で戦死します。
ー逃げ出すわけにはいかなかったんですか。
山本:周囲からは逃げろと勧められたけれど、彼は五稜郭を死に場所に決めていたみたいなんですよね。これは私の意見ですが、中島は、徳川幕府を再興するために榎本武揚と一緒に五稜郭へと赴いたと思うんです。ですが、榎本は徳川幕府を再興するよりも、明治新政府とは違う国を五稜郭に建国することを目指していた。
それで意見が違うことがわかったけれど、徳川家の復興を目指して自分についてきてくれた部下たちを裏切るわけにもいかない。もう私は生きて帰るわけにはいかない、ということで最後は戦場で武士らしく死ぬことを選んだフシがあります。実際、そういった趣旨の手紙が残っているんですよ。
ーこちらの資料館でも見られるのですね?
山本:そうです。函館に到着する前に家族へと宛てた手紙の中に、五稜郭で討ち死にした後は、浦賀に墓を建ててくれ、と墓のレイアウトを起こした図面まで書き記しています。結局、彼は五稜郭で息子二人と共に、函館の戦場の最前線で死んでいきました。最後まで徳川の御恩に対して筋を通した、頑固な人でもあったんですね。
あの渋沢栄一も「浦賀ドック」建設に関わっていた!明治以降、日本の近代化と共に造船の街として栄えた浦賀
ーところで、浦賀は、幕末にかけて商業の街から軍事基地へと変貌していったと伺いましたが、江戸時代以前もまた、浦賀は元々軍港として栄えていたと聞きました。
山本:そう。浦賀は戦国時代、小田原北条氏の軍港でした。北条氏は、本拠地の小田原、玉縄城のある大船を拠点に、そこから関東平野を幅広く抑えていくんですが、抑えられなかったところが三浦半島と房総半島だったんです。でも、三浦半島は小さかったのでついに制圧に成功するんです。
ただ、油壷にあった城を取り壊して、三浦半島を制圧した時、北条氏に負けた残党がみんな海を渡って房総半島の里見氏の領地へと逃げ込んだのですね。それで、里見氏は、「憎き北条をやっつけろ」ということで、館山から船を出して三浦半島を何度か襲うんです。
ーそこで東京湾で海戦が戦われたのですね?
山本:そう。里見氏の海軍力に対して、北条氏も対抗する必要ができたので、新設した北条水軍の本拠地が、ここ浦賀に置かれたんですね。東京湾を挟んで房総半島と向かい合っている浦賀からは、対岸の様子が本当によく見えていますから。「房総半島から船が出たぞ!」となると、三浦半島全体に伝令を出して兵を集め、浦賀から出撃して東京湾で海戦を戦いました。
ーあれっ、そうすると、傷ついた軍船を直すのもまた、浦賀だったわけですか?
山本:そうです。当時の海戦は、漁師の船を借りて即席で盾をつけて戦うだけだから、船がぶつかり合ったりしたら、すぐに傷ついて修理する必要があったでしょう。そこで、戦いが終わると浦賀へ戻って修理をしたり、新たに軍船を作ったりした。それが、浦賀でのドックの発祥だったわけですね。だから、元々造船や修理には大変縁のある場所だったんです。それが商業の町となり、明治になった時に、一周回ってまた造船の町になって……という形になってきます。
ー明治時代になると、どういった経緯で浦賀ドックが作られていったんですか?
山本:中島三郎助の遺志をついで浦賀ドックを作ろうと、当時農商務大臣だった榎本武揚が中心になって街の人たちがお金を出し合って建設されました。簡単に言うとドックは救急病院だから、傷ついて東京湾へ戻ってきたら、なるべく入り口の近くに行って治せるほうがいいだろうということで、浦賀が注目されていたという事情もありました。
渋沢栄一などは、明治のはじめ頃から浦賀を狙ってここに造船所を作りたいと明治政府に何度も掛け合うのですが、浦賀には別途、海軍の兵隊養成所が早い段階から操業していたので、なかなか明治政府がOKを出さなかったんです。それで、建設が1890年代までずれこんでしまったんですね。
ーえっ?渋沢栄一も浦賀ドック建設に関わっていたんですか?
山本:彼は浦賀の重要性にいち早く気づいていましたから。浦賀にドックを備えた造船所を作っていこうじゃないかと構想していたんです。ライバルである岩崎弥太郎率いる三菱財閥は、長崎に巨大な造船所を建設済みでしたから、三菱に対抗する狙いもあったのでしょうね。
ーすごい。岩崎vs渋沢の戦いですね?!
山本:渋沢栄一は、浦賀ドックの先にもう一つある、今はヨットハーバーに転用されているレンガ造りのドックを「石川島造船所」として先に建設済みでした。ところが、1897年に浦賀ドックができた。そこで、渋沢は同じ場所で2社が競争しても仕方がないから「浦賀ドックさん一緒になろうよ」といって、本当なら石川島が遥かに会社規模も大きかったのですが、上手くやって浦賀ドックに吸収させるんですね。そんな関わり方をしていました。
ーあれっ、でも、渋沢の石川島は、隅田川河口部分の「石川島」に本拠地があったから、長崎ではちょっと首都東京から遠すぎる気がしますね。
山本:そうです。船を治すために、長崎まで行ってくれというのはやはり都合が悪いので、三菱も東京湾内でドック建設を目指します。ですが、横須賀は軍港になってしまっているし、浦賀は渋沢が抑えている。じゃあどうするのか?ということで、岩崎弥太郎が目をつけたのが、横浜だったんですね。それが、今あるみなとみらい21に残っているドック跡なんです。
ー面白いですね!東京湾で、明治維新の経済人によるドック建設競争があったわけですね!
山本:そういう意味では、近代の日本の歴史を少し学びながら、浦賀や横須賀の史跡をたどってみると凄く面白いですよ。ペリーの来航で始まる日本の近代には、まだまだ面白いストーリーが出てきますから。
浦賀観光は、おにぎりを持ってピクニック気分で!
ーそういえば、先生は横須賀の郷土史家として長年活躍されていますが、同時に浦賀観光協会の副会長も務められるなど、浦賀については知り尽くしていらっしゃいますよね。
山本:そうですね。私は生まれも育ちも浦賀ドックと目と鼻の先でした。今は下水道局の建物や民家などが立ち並んでいますが、昔はドックの周辺には原っぱしかなかったので、このあたりを「ドックバラ」という言い方をして、よく遊びましたね。
ー浦賀はダイナミックな地形をしていますよね。海沿いにわずかの平地があって、すぐに背後には高い崖がそびえていたりして…。
山本:横須賀は、山が多いので。急傾斜のところにマンションを建てることで、法面の崩壊を防ぐための土留の代わりにしているという。
ーなるほど。土留とセットになっているんですね。それは効率がいい!
山本:周囲を山に囲まれた、非常に特殊な地形をしているのが浦賀の特徴なんですが、浦賀ならではの交通手段として、西浦賀と東浦賀を結ぶ「海の市道」を往復する渡し船があるんです。
ー戦後すぐまでは、東京などでも隅田川に渡し船が現役で稼働していたといいますが、今はもう記念碑ぐらいしかみかけないですよね。浦賀では、現役なんですね?!
山本:観光船ではなくて生活に密着した交通手段なんです。今でも通勤や通学で普通に使われていますよ。陸路で西浦賀から東浦賀へと移動するとなると、港をぐるっと巻いて遠回りしないといけないんですが、渡し船ならショートカットできますから、早いんです。呼び出し用のボタンを押したら2分で来てくれる便利さもあって、地元民の足として重宝されているんです。自転車も載せてくれるから、サイクリング愛好家もよく利用しているのを見かけますね。
ーせっかくなので、最後に楽活読者の方向けに、浦賀観光の楽しみ方のコツを教えていただけますか?
山本:浦賀って、一般的なイメージとして「ペリーの街」と思われているかもしれないんですが、実はペリーが上陸したのは隣町の久里浜なんです。浦賀奉行所跡もまだ発掘調査中で更地のママですし、浦賀ドックもこれから公開に向けて準備をしている……といったように、まだまだ観光開発は整備途上ですし、おしゃれな飲食店もまだまだ少ないのが現状です。
山本:ですが、ゆっくりと街の中を歩いていただきますと、例えば路地に石蔵や土蔵藏が残っていたり、江戸時代の石橋なども見られます。また、西叶神社などに行ってみると、ちょっと他には観られない見事な木彫が社殿の外側からも楽しめます。どうして小さな港町の神社に、これほどハイレベルな彫刻があるんだろう…等々、面白いものがどんどん見えてくると思います。
ー交通の便も、凄くいいですよね。
山本:横須賀線も京急線も使えますし、高速道路も浦賀まで来ていますから。キャンプや海を楽しみたいなら、観音崎も近いですし。海の雄大な景色が楽しめるという点では、江戸時代に建てられた灯台を復刻した「燈明堂」も最近は人気になってきています。その近くにある、国指定重要文化財として知られる千代ケ崎砲台跡も、まもなく一般公開がはじまります。ぜひ、おにぎりやサンドイッチを持って、ピクニック気分でのんびりとした散策を楽しんでみてください。
ー楽しみです!今日は、長時間ありがとうございました!
知れば知るほど楽しくなる浦賀探索。首都圏から日帰りで十分楽しめます!
いかがでしたでしょうか?江戸湾の玄関口という水上交通の要衝に位置したことで、時には軍事基地として、時には交易の重要拠点として、中世以降その役割を断続的に変えながら発展してきた浦賀には、日本の歴史、とりわけ産業発展の歴史が凝縮されています。
後日、山本先生から伺ったお話をベースにして、浦賀港の東西に点在する観光スポットを散策してみました。先生の仰る通り、1日かけて街中をゆっくり散策することで、街角の何気ない風景や、ダイナミックな海辺の絶景、様々な記念碑、歴史遺物の数々が見えてきました。特に、幕末から明治にかけての激動の時代の痕跡が体感できる名所には大きな感銘を受けました。
「浦賀」という地名は、誰もが一度は耳にしたことがあるかと思います。歴史の教科書で「ペリー来航」とセットで必ず出てくる有名な地名なのに、不思議なことに、実際に浦賀がどういう土地なのか、どのような歴史が刻まれた場所あったのか、ほとんど知られていないんですよね。
幸いにして、横須賀市の公式HPや観光協会のサイトを見ると、ここ数年、横須賀市では観光促進策を力強く推し進めてくれているようです。約20年前に始まった「横須賀海軍カレー」も今や全国区の知名度を獲得しています。ここ浦賀も、「浦賀ドック」の一般公開が実現すれば、魅力的な人気観光地に生まれ変わるかもしれません。
首都圏からわずか90分程度で行ける、日帰り旅行にもぴったりの浦賀。ぜひ、思い立ったら遊びに行ってみてくださいね。
関連情報
浦賀コミュニティセンター分館
所在地:〒239-0822横須賀市浦賀7-2-1
開館時間:8時30分~21時(展示室は17時まで。以降は要相談)
休館日:年末・年始(12月29日から1月3日)
公式HP:https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/2490/sisetu/fc00000087.html
浦賀コミュニティセンター分館の季刊情報誌『浦賀文化』
(山本詔一先生も毎回ご執筆されています)
https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/2490/uragabunka/index.html
横須賀開国史研究会
(山本詔一先生が会長を務める勉強会です。現在418名が在籍)https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/2120/culture_info/kaikoku/kouza.html
記事前編はこちらからどうぞ!