天才画家カラヴァッジョ!二枚の「エマオの晩餐」に見る、光と影!

光と闇の画家、カラヴァッジョ(1571~1610)。

強烈な明暗のコントラストによる、ドラマチックな画面を作り上げ、バロックへの扉を開いた天才画家。

一方で、凶暴な性格の持ち主でもあり、傷害や器物破損など、トラブルを起こすこと、数知れず。ついには殺人を犯して、ローマから逃げ出さざるを得なくなります。

革新的な画風の天才、同時に犯罪者。

彼が生きた17世紀当時から現代まで、多くの人を惹き付けてやまないのは、この極端なまでの二面性も理由の一つではないでしょうか?

今回は、彼が異なる時期に描いた二枚の「エマオの晩餐」を通して、革命児カラヴァッジョの光と闇を覗いてみましょう。

①そもそも、「エマオの晩餐」とは?

カラヴァッジョ「エマオの晩餐」1601年、ロンドン・ナショナル・ギャラリー所蔵

聖書のエピソードで、「晩餐」といえば、まず思い浮かぶのは、「最後の晩餐」ではないでしょうか?

イエス・キリストが、弟子たちを前にして、
「この中に私を裏切ろうとしている者がいる」
と告げる、緊張感みなぎる場面。

レオナルドの作品が特に有名ですね。この後、イエスは予告した通り、ユダの裏切りによって反対派に逮捕され、十字架にかけられて刑死。墓に葬られるも、その三日後、その遺体は墓から消えてしまいます。

そして、墓参りに来ていた女性たちの前に天使が現れて告げます。

「イエスが復活した」、と。

そして、この事件の起きた夕方ーーー。

イエスの弟子の一人クレオパが、もう一人の仲間と共に、エルサレム郊外にある町エマオへと向かっていました。

話題は自ずと、イエスの墓での出来事に及んでいきます。

イエスは確かに死んだ。「復活した」というのは、果たして本当なのか?

そんな二人の話に、通りかかった旅人が割り込み、一緒に歩き始めます。(旅は道連れ、と言うべきでしょうか?)

三人は、そのままエマオの宿屋で、夕食を共にすることになります。テーブルにつくと、謎の男は、パンを取り、祝福すると、裂いて二人に渡したのです。

その一連の仕草は、二人にとってよく知っている人物ーーー師イエスその人のものでした。

「貴方は、まさか・・・!」

しかし、二人が声をあげたその瞬間、イエスの姿は消えてしまいました。

②ロンドン版「エマオの晩餐」(1601年)

カラヴァッジョ「エマオの晩餐」1601年、ロンドン・ナショナル・ギャラリー所蔵

多くの画家が取り上げてきた、この「エマオの晩餐」に、カラヴァッジョが最初に取り組んだのは、1601年、30歳の時でした。

ローマに出てから数年間の下積みを経て、1600年、「聖マタイの召命」を含む「マタイ伝」連作で鮮烈なデビューを果たした、その翌年にあたります。

そんな状況下で制作された、このロンドン版「エマオの晩餐」には、「カラヴァッジョ」、という名前からイメージされる、あらゆる要素が詰まっています。

例えば、人物たちの表現。

カラヴァッジョお得意の、スポットライトのように強い光の下、中央で、右手を上げて、祝福するキリスト。それに対し、両手を広げ、あるいは椅子から腰を浮かしかけて、全身で「驚き」を表す弟子二人。無地の壁を背景に、彼らの手は、3D映像のように、画面から、こちら側へと飛び出してくるかのようにも見えます。

テーブルの上にも注目してみましょう。

物語に必須のパンや、水の入ったガラス容器、肉料理に、果物籠など、静物描写に対するカラヴァッジョの技量が、十二分に発揮されています。特にテーブルの端近くに置かれた果物籠は、ややもすれば、そのまま落ちてしまいそうです。

カラヴァッジョが生まれ、画家として修行したロンバルディア地方から、ローマへとやってきた正確な時期はわかってはいません。が、彼の胸中に一つの思いが宿っていたのは、確かでしょう。

「ここ(ローマ)で、ビッグになってみせる!」と。

このロンドン版が描かれた時期は、まさにその夢への確実な一歩を踏み出し始めた時期であり、カラヴァッジョ自身も張り切って制作に取り組んでいたのではないでしょうか?

③ミラノ版「エマオの晩餐」(1606年)

カラヴァッジョ「エマオの晩餐」1606年、ブレラ美術館所蔵

「自然をあるがままに描く唯一の画家」

生前、カラヴァッジョは、自身について、こう述べています。

この言葉からは、彼の美学と、それを可能にする自らの技に対する強い自信が読み取れます。この「傲慢」とも言えるほどの信念の強さこそ、カラヴァッジョが「天才」たる由縁とも言えましょう。

が、強すぎる信念は、妥協を是とせず、そのためにトラブルの種ともなり得ます。

カラヴァッジョの場合も例外ではありません。短所や欠点も理想化することなく、「あるがままに描く」そのやり方は、時には「下品」と見なされたのです。

描き直しを命じられたり、作品の受け取り自体を拒否されることもありました。それは、カラヴァッジョにとっては、自らの信念を否定されるも同義でした。

元々喧嘩っ早い性格ではありましたが、こうした作品をめぐるトラブルが重なる中で、彼の心は一層荒んでいきます。2週間制作すると、その後1、2ヶ月は剣を携え、ローマの町を歩き回っていたと言われるほどです。

そして1606年、34歳の時、ついに彼は決闘で相手を殺害。自らも重傷を負います。潜伏先で傷を癒す傍ら、逃亡資金のために描いたのが、もう一枚の「エマオの晩餐」(ミラノ版)です。

先ほどのロンドン版と比べると、雰囲気がかなり違います。

まず印象的なのが、画面を覆う、漆黒の闇。
電気がなかった時代の夜とは、まさにこの絵のようなものだったのでしょう。

祝福の言葉を唱えるイエスの動作は、ロンドン版に比べて小さく、抑制されています。祈りも、口の中で小さく、ボソボソと呟かれているかのように見えます。

が、この全てを呑み込むかのように、静かで深い闇の中で、その声はより印象深く響くのではないでしょうか。

そして、居合わせた人々の目は、必然的に声の主---イエスへと向かいます。

弟子たちの表情は見えませんが、彼らの驚きと、息を詰めている様とは、背中から伺えます。この後、物語の通りに、イエスは闇の中に溶けいるようにして消えてしまうのでしょう。

割かれたパンだけを残して。

いかがでしょう。

同じテーマを取り上げながら、数年でここまで違うのか、と驚かれたのではないでしょうか。

野心に燃えていた頃に制作されたロンドン版は、まるで舞台で演劇を見ているかのような画面。

しかし、数年後、ローマを出てから描かれたミラノ版では、人物たちの動きは小さく、今にも闇の中に呑まれてしまいそうです。

カラヴァッジョは、ローマを出た後、南部のあちこちを転々としますが、決して一つの場所に留まることはできませんでした。その間に制作された作品も、ミラノ版「エマオの晩餐」同様、あるいはそれ以上に静けさをたたえた闇の中、無力さや諦観を漂わせるものが多くなっています。

まるで、深い井戸の底を覗き込むかのように。

カラヴァッジョ「ダヴィデとゴリアテ」1610年、ボルゲーゼ美術館
おすすめの記事