
船は広いな大きいな。ということで氷川丸PartⅣ。氷川丸の魅力紹介もいよいよラストスパート。本記事ではこの船の心臓部、機関室に迫る。技術的にも見どころ満載の氷川丸。メカ好きはもちろん、機械のことをよく知らない人でも凄い技術が使われていたということは伝わってくるのではないだろうか。
凄いぞ機関室。船の心臓部は静かに語る。
造船技術を伝える貴重な産業遺産でもある氷川丸。一段と迫力あるこの船の心臓部は、現役引退後、時を超えたいまもなお私たちに静かに語る。氷川丸は1930年の竣工当時では最新鋭であった大型ディーゼル機関を搭載している。当時、エンジンもパワフルなものが求められた。操舵室同様、ここもまたメカマニアにはかなりそそられるお宝ゾーンだろう。巨きな駆動系をはじめ、全体はまさに馬力エンジン。100万馬力とはよくいったものだと圧倒されるほど、巨大なエネルギーが大胆に伝わってくる。

少し油の匂いが漂うが、この油臭さもむしろツボな人にはツボかもしれない(少なくとも個人的には割とツボである)。激動の昭和時代、幾多の荒波を超えてきたこの巨きな船。海の潮と機械、油そして塗料が相まった何ともいい表しようのないこの独特の匂いは、まさに氷川丸の匂い、氷川丸自身の生き残ってきた汗の匂いであるとも思える。この船の心臓部であるだけに、稼働せず止まっていてもなお機関室全体が巨大なエネルギーを放っていることは確かだ。


当時最大級の馬力エンジン、そして生みの親
氷川丸には左右ふたつのプロペラを回すため、左右2基のディーゼル機関がある。これら機関はデンマークのバーマイスター・アンド・ウエイン社(B&W社)で製造され、1930年(昭和5年)に輸入された。
氷川丸のディーゼル主機関は8680 DS型であり、爆発の力でピストンを上下させるしくみになっている。氷川丸は上下の燃焼室で交互に爆発する「ダブルアクティング・ディーゼルエンジン」(4サイクル)である。この4サイクル機関は2回転に1回爆発燃焼するしくみになっており、通常に比べ効率よく2倍のパワーが出るスグレモノであった。当時では最大級の馬力エンジン機関であり、この形式の機関は現在世界のどこでも作られていないという。

このエンジンの生みの親は浅野 利愛(あさの としお)さん。当時氷川丸などの機関をコペンハーゲンまで受け取りに出向き、各船の艤装を指揮した。氷川丸が最後の航海を終えて横浜港に到着した日に船内で開かれたさよならパーティの浅野氏の様子を伝えるエピソードも残っている。
パーティ開始時、肝心の浅野さんの姿が見えず、当時の田中 克己機関長がもしやと思って機関室を下りていったという。すると・・・浅野さんは機関室のあちこちをカメラでパシャパシャやっていたというのだ。浅野さんにとって氷川丸の機関は恋人や手塩にかけた我が子同然。浅野さんは「我が子」を写真に収めたあと、たたずんで油に汚れ、古びた機械に感無量という感じでなつかしそうに手を触れたという。(『氷川丸物語』高橋 茂 著 かまくら春秋社より)
なお、ディーゼル主機関の比較説明の図はボタンを押すとカタン、カタンと静かに動き出し、両者の違いを動きで示してくれる。ボタンをぽちっと押してみてほしい。


深部へGo!
層になっている機関室は、このフロアから階段を降りて深部も見られる。圧巻の船底部分も見逃せないため、こちらにも迫っていきたい。
PartⅢはブリッジに上がったが、あのブリッジから船底まで7階建てのビルと同じ深さになるという。それを上がったり下がったりしているわけである。下にいくほど水の中と同じ位置になり、夏場は体感的にもひんやり。そしてますますこの船のエンジン内部と大接近する。
















洗ったお皿、食事ごとに1000枚!
圧巻の機関室を出ると、一瞬ギャレー(厨房)を通る。PartⅠで氷川丸の食事について触れたが、氷川丸の食事を作ったギャレーについてここでも少々振り返ってみよう。


船客、乗組員あわせて300人以上の食事をつくったという厨房。およそ60人だったという厨房担当の乗組員たちは、洋食、和食、ベーカーなどに分担して調理をした。
日本郵船は料理にとくに力を入れていたため、腕のいいコックを乗せた氷川丸の食事はピカイチであった。クオリティの高い料理を提供するため、日本郵船では1916年(大正5年)にコックと給仕の養成所もつくった。ギャレーには1936年(昭和11年)ごろの養成所の様子なども掲載され、写真には日本郵船の料理をさらに向上させるためにつとめたフランス人講師などの姿もあり、調理中手元に落とした視線からは調理に真摯に向き合うプロ意識が映り込む。日本郵船の客船に乗るコックたちが養成所でマスターしなければならなかったメニューのつくり方は数百種類にのぼったという。
厨房では1回の食事で等級ごとの船客と乗組員用に計5回に分けて料理をつくったとある。(三等は人数が多いため2分割にしたようだ)。3食分15回におよぶ大量の料理を時間内に正確につくるため、調理は一日の段取りからはじまった。
このほか、皿洗いがある。当時の皿洗器は現代のように完成されたものではなかったため、手で洗った方が早く、各食事ごとに1,000枚ほど洗ったというエピソードも残っている。
続々と時間に追われる戦場であったであろう厨房。厨房員たちは朝5時に起き出し、昼休みは2時間ほど。一日が終わるのは夜の9時ごろだったという。何を食べてもおいしいと名高い氷川丸の食事をささえた司厨員たち。背後にははこうした働きがあった。
なお、船の厨房は揺れるため火気厳禁であった。調理の熱源はスチームと電気だったという。ギャレーコーナーの写真には竣工時に使われたスチーム釜もある。このほか氷川丸産もやしのエピソードもある。外洋に出ると食材の確保がむずかしいゆえの工夫として船内栽培されたのだ。氷川丸厨房の細かいおもしろいやなるほどが詰まっている。素通りせず、このギャレーコーナーでもしばし足を止めてみよう!
三等客室~緑の時代もあったよ氷川丸
つづいて、三等客室。PartⅡでも触れたように、一等やツーリストの船客エリアとは区画されており、自由に行き来ができなかった三等客室エリア。その客室は一等船客の華やかさとは異なり、このように質素でアットホームなものであった。食事も日本の家庭料理であったが、一方で長い航海中に仲良くなった船客が給仕から果物をもらったり、じゃがいもの皮むきを手伝うこともあったという。

氷川丸は現役引退後、1961年(昭和36年)5月、改装を終え山下公園に係留されて以来、宿泊施設を兼ねた観光船として新しい人生を送ることになった。横浜開港記念日の6月2日、海の教室兼ユースホステルとして開業したのである。
その際、この三等客室は横浜を訪れる修学旅行生の宿泊施設としても活躍した。内部はそのまま宿泊設備として転用され、三等客室は2段ベッドのコンパクトな相部屋で改造することなく、そのままユースホステルに転用できた。
修学旅行生を主とした宿泊業務は1973年(昭和48年)までつづいた。一度に600人の修学旅行生が泊まれるよう改装した船内は人びとの熱い人気を集め、宿泊業務停止までの13年間で宿泊者はのべ51万人を超えたという。
ユースホステル開業当時、船体色は緑色だった氷川丸。上部は白、下部は緑色、そして煙突もまた緑色に塗られていたのだ。氷川丸緑の時代もあったのである。
船体の色をまたしてもガラリ変えながら海の教室としての役割も果たしてきた氷川丸。修学旅行に付きものの怪談話や、普段見ない船の丸窓から臨む海。珍しい船の中に泊まれるということで、当時ワクワクしたなつかしい思い出のある人も多いだろう。
数百人のユダヤ人も乗せて
人びとの華やかで楽しかった思い出に、さまざまな積荷。氷川丸が乗せてきたのはそれだけではない。1940~1941年にはナチスの迫害から北米へ逃れる数百人のユダヤ人も乗せ、航海した。辛く悲しい思いや歴史も乗せてきたのだ。そして氷川丸そのものもまた数奇の運命に乗せられ、たどり着いた「いま」そして「これから」がある。
誕生から1960年引退までの30年にわたり、合計254回太平洋を横断した氷川丸。船客数は2万5千人あまり。戦時中の傷病兵と戦後の復員兵、引揚げ民間人を含めるとおよそ9万人もの人々を運んできた。軌跡のはじまり、シアトル航路時代、病院船、復員船、引揚げ船(※1)としての活躍、シアトル航路への復帰、引退、そして新しい使命と「いま」——見学の最後、もう一つの展示室ではそうして大きく揺れ動く時代を乗り越えてきた氷川丸の凄絶な半生を感じ取ってみてほしい。かわいらしい船の形をした説明書きには氷川丸にまつわる細かいエピソードも書かれている。前述の氷川丸のエンジンの生みの親、浅野さんのエピソードもこちらに抜擢されているのでぜひ一読してみてほしい。
※1:外国から本国へ帰国する(引き揚げる)人を乗せる船。とくに、第二次世界大戦後、外地での生活を引き払って日本へ帰国する人を乗せた船。

1941年、日米関係の悪化によりシアトル航路が閉ざされてしまったあとも氷川丸は活躍しつづけた。ここでもまた国同士の問題が横たわっていたわけだが、日米関係の悪化により海外にいる日本人を帰国させるための引き揚げ船としても働いた歴史がある。その後すぐに本格的な戦争に突入し、そこから海軍特設病院船となった。傷ついた兵隊たちを収容、治療し、日本に送り届けたのだ。外見もガラリと変わり、あのシアトルの荒海から激戦がつづく東南アジアの島々へと、行き先も大きく変わった。終戦までに日本に運んだ負傷兵の数は3万人を超えると推測されているため、多くの命を救ったことには違いない。



氷川丸の華やかな記憶。そして同時に病院船であった氷川丸の記憶。戦時中は多くの負傷兵たちが病やケガと闘い、悶え苦しんできた。展示室ではその中の一人であった『氷川丸物語』の著者 高橋茂さんの当時の様子も取り上げられている。連日激しい空襲に晒されていた激戦地ラバウルで、当時海軍に徴兵された高橋さんが病院船氷川丸に収容されたときの記述である。
船腹と煙突に赤十字マークをつけた氷川丸は、沖に停泊した。マラリアに罹患した瀕死の高橋さんの目に映ったその姿は「青い海に浮かぶその姿は、全身、目に痛いぐらい白く」と記され、「その姿は気高く、生きて帰れる安堵感を覚えた」とつづいている。その上で「その反面、病気とはいいながら、戦友を残して帰るのがなんとなくうしろめたい感じで、いいようのない複雑な気持ちを覚えた」とある。助かってよかった半面、仲間を残した何ともいい表しがたいうしろめたさ。そのいいようのなさにただ唸った。
このほかにも病院船時代、患者を病室へ降ろす作業中の様子や、壮絶な治療現場で当時軍医だった方の治療時の思い出なども掲載されている。また、”カタフリ”や”トーキー”と呼ばれた船員たちの娯楽であった話し合いエピソード、映画「タイタニック」と氷川丸の雰囲気や時代が重なったことや素敵なインテリアに魅了されて氷川丸での挙式を決めたカップルのほかの結婚式にはない特別な思い出など、人の数だけ刻まれてきた氷川丸の記憶は多岐にわたる。引退後、1961年(昭和36年)に山下公園特設桟橋に係留保存され、新しい使命に生きるようになってからも長年にわたり多くの人々に親しまれつづけている。

こうして建造以来、多くの人の夢や希望を乗せ、戦中戦後は帰国を叶え、また多くの死や訃報を悼んだ氷川丸を国の重要文化財に指定しようという動きになっていった。以降もひとつ、またひとつと船齢を重ね、2008年、日本郵船氷川丸としてリニューアルオープン以来、入館者は累計300万人に達している。(2019年6月の時点)
数々の人びととそれぞれの思い、人生を乗せてきた氷川丸。戦前に乗船した著名人ではこれまでにも秩父宮両殿下やチャールズ・チャップリンのほか、1938年(昭和13年)には柔道の父 嘉納治五郎、翌年1939年(昭和14年)には宝塚歌劇団も乗せ、海をわたった。嘉納治五郎にいたっては乗船直後に病に倒れ、船上で生涯の最期をむかえている。横浜到着2日前、「オリンピックはどうなった」の言葉を残して永眠したという。
時代とともに様々な役割を担い、姿を変え行き先を変え、人命を救助し、日本経済をささえ、戦争を生き残り、並々ならぬ歴史をつないできたこの船には海のロマンだけでは括り切れない重みが詰まるに詰まっている。こうした軌跡を思うとただただ感慨深い。通常の船の3倍近く生き続けていることそのものが、世界でも類まれなのだ。軌跡はそのまま奇跡ともいえるのだろう。



終わりに
いろいろな意味でいのちの月である8月。終戦の月でもあり、氷川丸も節目をむかえた月だ。そのような8月に当記事を手掛け、ひとつの平和の象徴でもある氷川丸を伝えたい者の一人としてこの世に送り出せたことは光栄であり、とても嬉しく幸せに思う。近年になり、拙いながらも後世や次世代に何を遺せるか、そのために少しでも自分にできることは何かに心砕くようになった私にとって、その喜びはただ大きかった。
幾多の荒波を乗り越えてきた氷川丸。華やかな記憶とともに、病院船であった氷川丸の記憶。戦死より病死の方がはるかに多かったこと、相次いだ悪性の熱帯マラリアや栄養失調に倒れた兵士。悶え苦しむ患者で埋まった病室。臭気と呻き声で満たされた船内。せっかく収容したにもかかわらず、日本の土を踏むことなく命を落としていった人びと。直視するにしのびない戦時中の治療現場で、氷川丸はそのような光景や死も悼み、一身に受け止めてきた。並々ならぬ歴史をつなぎ、超えてきたその凄絶な足跡を知ってこそ、いま一度この巨きな船体を見たあかつきにはこれまでとは違って見え、感じ方も違ってくるものだ。

横浜をヨコハマにする、そこにあるだけで横浜を横浜たらしめる存在感は今日も人びとに親しまれている。これまでにお伝えした赤いくつのきみちゃんたち同様、時代に翻弄され生き抜いてきた氷川丸。シアトル航路のさかまく荒海、そして世の情勢としての怒涛の激動期を乗り越えてきた彼女は、今日も平和な山下公園の桟橋に係留され佇んでいる。潮風にはためく日の丸。喜びも、悲しみも、一身に受けてきた94歳の船体。彼女は今の横浜や日本をどう眺めているのだろうか。私たちには計り知れない。いま一度、その雄姿と足跡を仰ぐように見上げると、その問いに答えるかのように太い汽笛を響かせた。横浜を横浜にする音だった。
強運のプリンセスは、今日も潮の薫りとともにヨコハマの港に溶けこんでいる。