「氷川丸」時空越え大冒険 PartⅠ

「じつは中に入ったことないんだよなあ」の方必見!

港町ヨコハマ、山下公園をおとずれた方なら一度は目にしたことがあるであろう横浜港のシンボル「氷川丸」。厳ついリベットの黒く頑丈な鋼板はひときわ貫禄があり、横浜になくてはならない存在感を放っている。造船技術や客船の内装を伝える貴重な産業遺産として高く評価され、2016年には戦前の日本で建造され現存する唯一の貨客船として重要文化財に指定された。それからさらに年月を重ねつづけるいま、氷川丸は船齢100年をむかえようとしている。

波乱万丈な人生を送ってきた氷川丸。現在は山下公園の特設桟橋に係留され、歴史を繋いできたその貫禄を誇りながらいっそうどっしりゆったりと構えている。すぐ横を通るなど外から見るだけでも十分存在感があるが、見学をするとさらに見ごたえがある。

2024年7月現在、船内見学は一般で300円。暑さや雨天時の影響もそこまで受けずに見て回れるのも嬉しいポイントだ。船内はところどころでむっと空気がこもったような箇所もあるが、それ以上にヨコハマ再発見の冒険に満ちている。「山下公園には行くけどいつも外から見るだけで、じつは中に入ったことないんだよなあ」という方にこそ、ぜひ見ていただきたい。

今でこそ山下公園にゆったりと係留されているが、歴史と見どころ盛りだくさん、詰まるに詰まった船体である。あまりにも詰まりすぎてその見どころは歴代船長でも語りつくせないほどではないだろうか。

今回は氷川丸の忘れられない大きさと歴史の深さも含めた魅力に迫る。全長163メートルあまり、総トン数11,622トン。その船内は知れば知るほど、冒険というよりは大・大・大冒険である・・・!

「なーんだこりゃ?」~知っておもしろ2倍増し。誕生地も重要文化財ですよ編。

そもそも氷川丸はどうして、どうやって生まれたのだろうか。知ることで見学がグッとおもしろくなる氷川丸誕生の背景をまずお伝えしておきたい。

1930年、日本郵船がシアトル航路用に造った貨客船氷川丸。第一次大戦後、欧米では大型客船の建造競争が激化し、それに対抗できる優秀な船の建造が日本でも急務だった。1920年ごろから欧米が投入した大型船に対抗し、「日本も優秀な船をつくろう」の声が一気に高まり、氷川丸は当時の最新鋭の船として造られた。

近代化政策の一環によるもので日本海運の夜明けでもあった当時、日米をむすぶ航路はシアトルとサンフランシスコがあった。アメリカの巨大客船に対抗するため、日本郵船がシアトル航路に投入した大型船が氷川丸、日枝丸、平安丸(頭文字がすべてHではじまるこの三姉妹もお見知りおきを)。サンフランシスコ航路には浅間丸、龍田丸、秩父丸を投入した。氷川丸はこのような時代に生まれた船で、当時の日本船としては破格の費用をかけられた。

現在、帆船日本丸が係留されているここは旧横浜船渠第一号船渠(ドック)。氷川丸の誕生地である。

そしてその生まれは、横浜船渠(現・三菱重工業(株)横浜製作所)。明治26年(1893年)、船舶の修理のため、渋沢栄一と地元の財界人たちが創立した造船所である。英国人技師 ヘンリー・S・パーマーの「港湾の発達には船渠(ドック)・倉庫などの付帯設備の充実も不可欠である」という提言に基づき、設立された。

ドックは、船が港に入ったら排水して修繕や検査などを行う場所だ。ドック後方にある扉船(とせん)を開けて船を入れ(想像するとダイナミックな光景がうかぶ!)、扉を閉めてドック内の海水を抜き、検査や船体の水面下部分の修理や外板・船底の清掃や塗装など船のお手入れをする。扉船とはドックと海を隔てる水門で、海とドックの間に設置される。海側の水圧を利用して海水の侵入を防ぐ栓のようなはたらきをする。

高層ビルが林立するみなとみらいエリアに、氷川丸の誕生地は遺っている。帆船日本丸がうかぶ巨大な水の器と、さらにその先、地下に伸びるガツンとした石積みの階段で囲まれたギリシャやローマのコロセウムのような広場はドックヤードガーデン。「なーんか変わった形の階段だなあ」「何だこの形は??」とお思いの方、これは巨大な船の船底のようにも見えないだろうか。それもそのはず。この巨大な器こそ、横浜船渠と呼ばれたかつての造船所のドックの跡なのだ。昭和5年(1930年)4月25日、氷川丸はここで生まれた。

建設当初、長さは、約168mだったが、横浜港に入港する船舶の大型化にともない、大正7年(1918年)に頭部分を延長し、約204mとなった

明治32年(1899年)5月~昭和57年(1982年)12月までの83年間、このドックでは数千隻におよぶ船の修理がされてきた。氷川丸もかつて修繕のため第一号ドックに入ったことがあった。

その左奥にはドックヤードガーデン。旧横浜船渠第2号ドックをランドマークタワーの足元に復元・保存している。歴史の新旧をつなぐように、ランドマークタワーの足元にというのがまたいいのかもしれない。

幅約39m、深さ約11m。ともかく巨きい!いや本当に巨きい。石材は神奈川県真鶴産の小松石(安山岩)が使われている。

第2号ドックの扉船。船感は十分。

すぐ横にある説明版には、ドックと海を仕切る扉船の役割が書かれている。読んでもピンと来ない方は、第1号ドックで現役の扉船をご覧いただくとイメージが掴みやすいかもしれない。

ドック周りにはドックや扉船の日本語解説(一部英語表記もあり)もある。こちらは第1号ドックにて。見つけたらぜひ一読してほしい。(京浜臨海部産業観光認定事業)

未だ発展をつづけ、一日ではとても回り切れないほど見どころだらけのみなとみらいエリア。ドックヤードガーデンはランドマークタワーの建設に合わせて保存改修がされ、今はイベントスペースとしても活用されている。造船ドックあってのヨコハマ。何より、この巨大ドックこそ今日の横浜港発展に欠かせないものであった。巨きなドック。巨きな発展。今やハマのドックと呼ばれて久しいが、いかにこのドックの横浜港発展への貢献が大きいかということだ。ドックヤードガーデンの名前すら聞いたことがなかったという方にはぜひ、最新のホットな話題が続々と生まれるみなとみらいであるとともに、ここがみなとみらいでもっとも歴史を感じられる場所であることを知っていただきたい。

日本に現存する最古の石造りドック。その歴史は明治時代にまで遡る。係留されている帆船日本丸、そして氷川丸ともども、敷地内に遺るこれら2基の造船ドックたちもまたこの国の重要文化財に指定されているのだ。どうぞお見知りおきを。あのヘンな形の階段は、じつは重要文化財なのである。


1世紀以上の歴史をもつ重要文化財。みなとみらい駅や桜木町駅からほど近いところに、氷川丸級の大型船をつくったドックが・・・あるわけだ。文化遺産だらけの横浜にあって、これまたよくぞ遺してくれた!!といいたい日本近代化遺産のひとつだ。いつでも無料で見学できるところはさらに凄い。

そして見学へ!

さて、氷川丸の誕生地をお見知りおきいただいたところで、いざ見学へ!「船内を見学できます」と船上にも掲げられているように、氷川丸は大人でもたったの300円で見学ができる(何て良心的なんだ)。基本は月曜が休館日で、月曜が祝日の場合は開かれ、翌平日が休館になるパターンだ。

突き抜けるような青空に紺碧の海。先端に掲げられた日の丸を潮風が翻し、天気のいい日は氷川丸の雄姿も一段と絵になる。じつは山下公園側から見えるこちら側は氷川丸のお尻部分。いかついリベットにシビレる。

300円だ。300円。経済的以上に、得るものの大きさを思うと1回どころか何度定期的に見学してもいいぐらいである。

 迫力!まずは船体のダイナミックさ。

まずは船体のダイナミックさを五感で体感してほしい。入口の白いアーチをくぐってすぐ、氷川丸の重厚な船体と急接近する。船内未踏でも、この時点で見学のはじまりはじまりだ。これは見学するからこそ拝見・体感できる凄味で、かなりの迫力!山下公園から見ている以上に距離が縮まってはじめて分かる重厚感かもしれない。

というのも、行き先は荒天と荒海で名高いシアトル航路。造船当初、それに向けた設計において、船体は軍艦張りの頑丈さがもとめられた。先に触れた横浜船渠で大正5年(1893年)に造船が始まった当初、7,000トン級以下の貨物船17隻を造ったのみで、客船でもあった氷川丸の造船は初の体験であった。当初、横浜船渠の設計スタッフは32人だったところ、氷川丸の造船で一気に150人を臨時雇用。氷川丸を誕生させるのがいかに大仕事だったかがうかがえる。造船当初、客船建造の経験はなかったものの、資材や技術、設備などを拡充強化し、氷川丸をみごとに完成させた。こうして、頑丈な船体が造られたのである。

黒光りする外板も頑丈なシアトル航路仕立て。処女航海など船は女性名詞が使われ、強運のプリンセスとも呼ばれる氷川丸だが、船体は男前である。

外板も通常は10ミリの厚さの鉄板を16ミリにし、それをさらに重ね合わせる部分を増やした。リベット工法(ネジなどのように簡単に取り外せない鋲で船体部材を半永久的に接合する)でしっかり打ちつけられた。ストリンガー(縦通材)やフレーム(肋材)を大きく、間隔も狭くつくられている。

このアングルからの船体もかなり男前。無骨なリベットが味を出す迫力ボディにシビレる。

シアトル航路の過酷な荒波にも耐えられるよう、このようにほかの船に比べて頑丈につくられている。波乱万丈、幾多の時代の荒波に翻弄されてきた氷川丸。その軌跡には危機もあり、戦時中3回にわたる触雷や戦闘機からの銃撃、潜水艦との遭遇から生き延びたこともあった。敗戦後には戦後賠償として差し押さえになりそうになったことからもまた生き延びた。昭和18年(1943年)10月3日、スラバヤ港への入港を目前に触雷アクシデントに見舞われたときは、磁気機雷に船尾部分が触れた。幸い大きな被害はなかったが、凄まじい大音響とともに船体は揺れ、船内は魚雷の攻撃かと一時騒然となったという。この触雷によりプロペラシャフトの軸受けが歪み、修理に10日ほどかかったようだ。

しかしながらこの頑丈な造りがあったからこそ、沈没を免れ生き延びることができた。荒波のみならず、雷にも銃撃にも負けなかった氷川丸。それにしても銃撃も然ることながら3回も触雷とは凄まじい。(一回だけでも十分災難だろうに)。そしてやはり災難をたびたび受けていながら生き延びてきたのはさらに凄い。

前述のとおり、氷川丸には同型の姉妹船「日枝丸」そして「平安丸」がいた。三姉妹は太平洋戦争で旧日本軍に徴用され、病院船となった氷川丸以外の姉妹船は西太平洋で米軍の攻撃をうけ、沈没した。

それに対し、訃報がなかったのは氷川丸だけであった。幾多の危機を乗り越えてきたことに由来し、氷川丸は「強運の船」「幸運の船」といわれる。

いざ船内へ!船自体が博物館

もはや鉄であって鉄ではない、巨きな生きものでもある氷川丸。迫力の息吹きを感じ、いざ中へ!

そして払った価値は十分であるということは、入館早々に示される。まずはエントランスフロア。

船内に入るとまず船名版がお出迎え。重厚感たっぷりである。氷川丸を造った前述の横浜船渠の証明書にあたるもので、177は横浜船渠での建造番号を示す。

これを家に飾ろうものなら一気に重厚感を醸し出すであろう船名版にはじまり、エントランスフロアには氷川丸の歴史と解説が当時の写真とともにパネル展示がされている。病院船時代の技術的な見どころ。最後の航海を終え、観光船となったのちの軌跡には、イルミネーションもありましたね時代の一枚も。氷川丸クリスマス仕立ての姿にはおなじみの方も多いだろう。氷川丸誕生と軌跡のアルバムをダイジェストでご覧いただける。

写真でたどる氷川丸激動の半生。氷川丸のイメージキャラクター キャプテンハマーも等身大パネルとなり、来る人をエントランスホールで出迎えている。

イルミネーションもありましたね時代。恒例の氷川丸クリスマス仕立ての姿には「知ってる~!」「あったよね!」と、おなじみの方も多いことでしょう。

前述のドッグヤードガーデンで誕生したこともバッチリ載っている。シアトル航路用に豪華客船として生まれた氷川丸の、大きくゆれ動く時代とともに何度も変えてきた役割。船内見学のおもしろみを2倍増し以上にするためにも、ここで氷川丸激動の半生をザーッとでも写真でたどっておきましょう!

イントロ部分に触れたら順路にしたがい、開けられたお上品なドアの向こうへGo!船内通路は大人2人がすれ違えるほどの幅。思ったより長~い船であることが分かるはず。

客室案内のレトロさにも注目。部屋番号は右舷が奇数、左舷が偶数になっており、乗組員は部屋番号を見て今自分が船の左右どちら側にいるのかを確認できる。船首に近い順に番号がつけられ、番号が小さいほど船首側になる。

道中には丸窓がいくつもある。近づいてみると・・・
丸窓に収まるランドマークタワー、インターコンチネンタルホテル、コスモクロックなどみなとみらいのシンボルたち。運がよければ飛鳥Ⅱやダイヤモンドプリンセス号など、大さん橋に停泊する豪華客船もお目見えするかもしれない。

一等児童室~海と船のなるほどポイント

つづいて一等児童室。一等船客専用の遊戯室である。お金持ちが乗る船であるため、子ども部屋も抜かりない。高価そうな木馬も置かれている。

ここには「スチュワーデス」と呼ばれる子どものお世話をする女性乗組員がいて、託児も行った。ディナー時もここで子どもを預かったため、大人たちはゆっくり食事を愉しめたという。部屋はマルク・シモンにより設計された。あたたかみのある淡いピンクの壁でかわいらしい雰囲気だ。天井下の壁面に描かれた子どもの絵は竣工当時のもので、日本の児童たちが遊ぶ姿がレトロなタッチで描かれている。

ここでおもしろポイントとして、子どもたちのお世話係の「スチュワーデス」という呼び名にちょっと注目したい。みなさんは、船の仕事で水先人という言葉をご存じだろうか。英語でパイロットだが、もともとは水先人(水先案内人)の意味で使われてきた。普通パイロットというと飛行機の操縦士を思いうかべるが、元来船の水先人のことをいう。文字通り水の先を案内する役割で、船長をささえる立場で船の操縦を指揮し、船や港の安全を守る人たちのことだ。

ちなみに日本では案内が必要な港周り(水先人が業務を提供する水域)を水先区と呼ぶ。水先法にもとづいて外航船が多く出入りする港や湾、内海の水域に設定されている。現在は合わせて34の水先区があり、その規模はさまざまだ。そして港や案内人のスタイルによって案内方法もまたさまざまである。

スチュワーデスにパイロット。飛行機は船よりあとになってからできたため、飛行機でおなじみの名前はじつは船用語から取った名前が多いのだ。海と船のなるほどポイント、ひとつお見知りおきを。

ゴージャス一等食堂室

つづいては、一等食堂室。ここに入った瞬間、見学者は開口一番「凄いなあ~」。息をのむようにして、誰もがそのタイタニックぶりの豪華さにまず驚く。一等船客専用のダイニングサロンで、豪華さはご覧の通り。瞬時にタキシードとイブニングドレスの紳士淑女が豪華ディナーを堪能する姿や、スマートに給仕するボーイの姿が目に浮かぶ。船幅いっぱいにスペースを取り、食事の際に流れるBGMとともに優雅な食事風景が再現されている。

高級感に満ちた一等食堂。昭和初期の優雅で華やかな客船文化が再現されている。
テーブルマナーがもとめられたのも納得の光景。乗客が実際に食した料理のレプリカもあり、豪華なメニューに目を奪われる。氷川丸の食事は味も一級品だったという。
照明の光がやさしく、テーブル席の華美すぎないすっきりとした美しさが光る。

限られた空間の中で実現しているのは、1910年代半ば~1930年代にかけて流行したアール・デコの装飾。中央の高い天井などにより、メインダイニングとしての豪華なしつらえが光る。一等食堂はマルク・シモン設計の主な部屋のひとつで、カラースキーム(色のついたインテリアデザインの図面のこと。実際にはその通りに仕上がらないこともあるが、設計者の考えがもっとも反映される)を見ると、竣工当時はほぼ設計通りに仕上がっていたという。典型的かつ上質なアール・デコとして、そのままの形で遺されている。丸三角四角などの繰り返し文様や左右対称も特徴だ。大量生産の意味合いもあり、繰り返したり反転させたり文様の使い回しにより生産しやすさを追及しつつ、デザイン性が確保されている。

秩父宮両殿下乗船時の特別ディナー。ここでは10月4日のディナーのメインディッシュとデザートが再現されている。

数々の著名人やVIPを乗せた氷川丸。昭和12年(1937年)10月2日には秩父宮両殿下の乗船にあたり、持ち込まれる食材もすっぽんや松茸など特別ないつも以上の豪華ディナーが用意されたという。ここでは10月4日のディナーのメインディッシュとデザートが再現されている。大皿に美しく盛りつけられた料理を目の前で給仕が取り分ける光景が目にうかぶ。 

時計のぽこぽこ感がナイス。振り子のようなユニークなデザインである。

多岐にわたるよボーイの執務

一等船客には「船内御注意」というしおりが配られ、当然ながら食事にたいするマナーがもとめられた。そして給仕するボーイもまた、欧米式のマナーをもとめられた。日本郵船の外国航路の乗組員は、船客へのサービスに心を砕いてきたが、とりわけ船客と直接接する機会の多いボーイは重要な役割を担っていた。そのはたらきぶりの良し悪しはたちまち船全体の評判になり、会社の名声にも影響する場合もあり、さらには初めて日本船に乗る外国人客はボーイのサービスを通して日本国民を観察し得る場合もあるわけで、船の給仕はなかなか重大な使命を持っていたのである。

テーブルに置かれた「船客をもてなす仕事」には給仕たちの仕事ぶりや給仕養成の様子、執務の心得などが書かれている。

船室にはさまざまなサービスを担う乗務員が乗船し、万全のサービスが整っていた。中でも一等客室担当のボーイともなると、英会話ができなければ務まらない。その上で欧米風のマナーや、きめ細やかなサービスを身につける必要があった。そこには乗客の好みを把握することも含まれた。シリアルはいつも何を食べるのか?トーストの焼き加減は?普通の魚は食べないがスモークなら食べられるのか?卵の調理スタイルは?ハムやベーコンなどの付け合わせは必要か?パンケーキははちみつとシロップどちらを好むか?・・・など、短時間のうちに個々の乗客たちの食の好みを察する観察眼をみがくことももとめられた。

「船客をもてなす仕事」のページをめくると、『給仕の執務心得』という、給仕に必要なサービス精神とそのあり方を具体的に解説した日本郵船の業務マニュアルも載っている。全身をくまなくチェックした上でにおいにも気をつける給仕の身だしなみ、料理の給仕マナー、外国人船客のための英会話、お客様との談笑は慎むこと、コックの作った料理には敬意を払い、芸術作品として見なすこと、病気になった船客への対応のし方・・・という具合に多岐にわたる。その特徴的な項目が紹介されているため、氷川丸をさらに細やかに知ることができる。氷川丸お見知りおきの一環としておもしろみが深まるので、こちらも目を通しておきましょう!

人気だったよカレーメニュー

味もピカイチだった氷川丸の料理だが、古くから日本人の人気メニューといえばカレーライス。お寿司やすき焼きなどと並び、カレーライスはいつの時代も日本人の好きな食べ物ランキング上位には確実に食い込んでくる王道メニューのひとつである。一等食堂室に展示されている食器類の写真にカレーポットがあることが示しているように、氷川丸現役時代もカレーライスは人気メニューであった。材料に味付けと、コックたちは毎日のようにアイデアを凝らしたという。

かがやく銀食器類。昭和5年(1930年)~昭和35年(1960年)。船で使われた銀食器は陸のものよりも2~3mmほど厚く、頑丈に作られていた。お手入れは大変でも、裏側や細かいところまで丁寧に磨くよう、指導が徹底されていたという。

展示の銀食器類は当時の様子を静かに語り、とくにカレーポットは、優雅にかがやいていた。テーブルにあるだけで華やかさを添えたことでしょう。昼食のみならず朝食やディナーのメニューからカレーライスが姿を消すことはなかったようだ。

安心感のある味のバランスに、元来のお米文化。こうした要因もあり、令和になったいまも日本人のカレーライスへの絶大なる信頼と人気は健在である。ご飯といっしょに食べたいという、日本人の農耕民族ならではの気持ちや本能に近い欲求も影響しているのだろう。陸でも海でも、カレーライスは時代を超えて日本人を魅了していたわけである。

タイタニックゾーン~紋章と由来、ここにあり!

AデッキとBデッキをつなぐ豪華な螺旋階段は、タイタニックそのもの。ジャックに手を引かれてローズが降りて来るかもしれない。
大胆な鏡ともども大変写真映えするため、螺旋階段もまた横浜の人気ウェディングフォトスポットでもある。1963年~2004年まで行われていた船上挙式では2,000組近い夫婦が誕生。46年にわたり、人びとの思い出のワンシーンを飾ってきた。

命名、氷川丸。

アール・デコ様式の手すりが美しいこの階段は、氷川丸のシンボルともいえるだろう。脳内プレーヤーでタイタニックBGMが鳴る豪華階段を歩きながら、ここで氷川丸の名前の由来にも触れておきたい。氷川丸という船名は、武蔵一宮氷川神社(埼玉県さいたま市大宮区高鼻町)に由来している。どこどこ神社が全国何か所にもあるというように、この氷川神社も首都圏に何と280以上あり、その総本山であるのが武蔵一之宮氷川神社だ。

社記によると日本の第五代天皇 孝昭天皇の時代にまで遡ると伝えられ、古来より歴代の朝廷や武将の尊崇をあつめてきた由緒ある神社である。日本郵船では船名に旧国名や山、神社の名前を選ぶ伝統があった。氷川神社から名付けられた氷川丸は、船内装飾(中央階段手すり部分)に氷川神社の神紋「八雲」を見ることができる。

中央階段の手すりにあしらわれた氷川神社の「八雲」の神紋。併せて榊を入れる壺のような模様も入っている。

歴代船長以下乗組員は大宮まで参拝するのが習わしで、船がドックに入ると乗組員たちは隊列を組んで氷川神社を参拝したという。氷川神社の本殿には氷川丸の救命浮き輪と羅針盤が奉納されているが、かつて戦争が始まってからは南方から持ち帰った砂糖など珍しい物資も多々奉納されたようだ。また昭和17年(1942年)の航海中、船中で氷川神社の大祭を祝うお祭りも行われた。

なお、のちほど紹介する操舵室にはこの氷川神社から分祀された神棚が祀られ、船内神社とされている。

船内郵便局の名残

そして階段を上り切ったところには、カウンターがお目見えする。こちらはかつてシアトル航路で船内郵便局があったころの名残である。営業は航行中のみで、一等~三等船客まで誰もが利用できた。

かつてシアトル航路で船内郵便局があったころの名残。
カウンターの左側にポストがある。順路看板の近くにあるが、やや低めの位置にあるため見落としご注意。

シアトル航路で氷川丸に初めて船内郵便局が設けられたころ、この案内所の左側にあるポストに投函すると船内郵便局の消印がポンと押された。この消印は「船内印」とよばれ、それぞれの船名の入った消印は船旅のいい記念となったそうだ。(想像しただけでかなりロマンがある)。変わりゆく時代とともに多くの人びとの手紙を受けてきた郵便ポストが、現在もこのカウンターの左横に遺っている。

現代のように航空便が発達していなかった当時、国策のひとつである郵便物の輸送は定期船にとって、もっとも大事な業務のひとつであった。それらの船はメイルシップと呼ばれたという。Mail Ship、つまりメールを運ぶ船、郵便船ということでなるほどである。

こちらは一等読書室。英語では”First-class reading room”とあり、一等船客が読書や手紙を書いて過ごす場である。
同じくマルク・シモンによる設計で、こざっぱりと落ち着いた内装。柱形と中央の天井灯は、竣工当初のままだという。本棚の上にはマーク・トウェイン号の模型も飾られている。
手紙を書く専用机。窓からはやさしい光が差し込む。船内で読書に一筆したためる手紙・・・うーん豪華ロマンである。

通信手段が何でもござれ、ITが主流の今でこそメッセージやDMなどを送ったり、日本で待っている人が相方の旅先での元気な姿を動画などで確認したりできるのも便利だが、船上からのハガキや手紙ともなるとトキメキ度が段違いだろう。氷川丸のような船の中で一筆したため、先のポストに投函となるとロマンも2倍増し以上、これは手紙を送った側も受け取る側も相当嬉しいのではないだろうか。(私なら送るも受けるもかなりテンションが上がる)。

なお、タイミングによっては、この読書室は割と見学者で詰まるポイントでもある。先の食堂などと比べ、縦に狭いことも一因している。本棚に並ぶ書籍やその上の模型なども目を引き、思わず足を止める人が多い。このため土日などは割と渋滞ポイントにもなりやすいようだ。通行を妨げないようあとから来た人たちにも意識を向け、譲り合って見学しましょう。

一等社交室。氷川丸のメインホールで、船内の公式レセプション会場として使われてきた。現在もほぼ建造当時の姿で遺されている。
夜はイスやじゅうたんを片づけてダンスパーティ会場になるなど、一等船客の社交場にもなっていた。グランドピアノも設置されている。船室全体のほの暗さもいい味を出す。
ここにも大きな鏡があしらわれており、アール・デコ装飾がいたるところに見られる。女性の社交場としての性格が強いため、一段と優雅な装飾が施されている。
上も眺めておこう。天井もこざっぱりエレガント。

ディナータイム後はこの社交室で毎晩のようにダンスパーティーが開催された。ご覧の通りアール・デコの装飾が美しい設えである。まさにタイタニック、この社交室でドレスアップした紳士淑女たちが優雅に踊る華やかなパーティは、一等船客だけが味わえるイベントであった。

まだまだ船内の見どころは続く

氷川丸時空越え大冒険PartⅠは今回はこのへんまでにしておきましょう。知れば知るほど巨きく、見ごたえあふれる船であることを存分にお楽しみいただくため、つづきはPartⅡにて。VIPルームなど引き続き船内の様子をお届けするほか、船長にまつわる話やイギリスの喜劇王チャールズ・チャップリンの意外な乗船理由など。お楽しみに!

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