氷川丸時空越え大冒険PartⅢ~船は広いな大きいな。

船は広いな大きいな。ということで氷川丸PartⅢ。しみじみゾーンなる展示室を経て、前回の最後クラシカルな客室ではタイムスリップしたかのような感覚を覚えたかもしれないが、そこから進んでいくといったんデッキに出る。そしてさらに行くと、この大きな船を動かしていた操舵室へとつづいている。前回お伝えした豪華な客船とはまた違った世界だ。

階段急勾配スペシャル

とはいえ操舵室までは階段が待ち受けている。しかも急勾配だ。歩きやすさや転倒防止の観点からも船内見学は運動靴がおススメである。

外を見ると一気に現代に!いったんデッキに出て操舵室へ。
床の黄色矢印にしたがって進んでいきます。
階段が急なため、お気をつけてどうぞ。カンカンカンカン・・・
つづいて階段現る。一発目より急傾斜なため転落注意!
ここで一瞬、氷川丸のチャームポイント、ストライプ煙突ともかなり接近できる。
海から臨む山下公園も船上ならでは。そして・・・
また階段。畳みかけるように階段ラッシュである。たどり着くまでになかなか体力を使う。
普段なかなか見られない先端部分。これも氷川丸に乗ってこそ見られる部位なので見ておこう!ちなみにこの先端部分は挙式時などは特別に解放された。ここでタイタニックポーズをするカップルもいたようだ。そしてここまで上ってきてどのくらいの高さかというと・・・
高いっ・・・!7階建てのビルに相当する高さをここで体感。

操舵室

かなり急傾斜な階段を上ると、操舵室がお目見え。ここは船の総指令室。運転士が24時間体制で船の安全航行を見守ってきた場所である。文字通りかじ取りをする操舵室には、渋い機械がズラリ。船内の各部署の状況を把握するため、さまざまな装置たちが集まっている。メカ関係がお好きな方にはかなりそそるのではないだろうか。窓やそこから臨むマスト、この船の先端部分などにも注目しながらゆっくり見ていただきたい。

操舵室に到着。ガラガラガラッ!と開け放たれた木のドアも船感を放つ。
PartⅠでお伝えした氷川神社も祀られている。
船といえばこれ。この装置の舵輪と船尾の操舵機は水で満たされた細い管でつながっている。管内の水圧変化で山下公園側から見える氷川丸船尾の舵を長いこと動かしてきた。
集結する渋いメカのひとつ。こちらはレーダー。電波の反射を利用し、対象物までの距離を知ることができる。
こちらはクリアビュースクリーン。嵐のとき、強い雨風や波でワイパーは役に立たないため、丸窓部分を丸ごと高速回転させ、遠心力で水滴を吹き飛ばす装置である。現在でも多くの船で使われているという。丸窓を丸ごと高速回転とは凄い。なお、天気がいいとここからスカイツリーも見える。氷川丸~スカイツリーまで直線距離で約32.6km。
汽笛。就航当時、このレバーを回すと汽笛が鳴った。英語ではホイッスル(Whistle)現在も毎日正午になると汽笛が鳴らされているが、あのブオーはここから来ている。ちなみにレバーの隣の箱は双眼鏡を入れる箱である。
PartⅡの展示室部分でもお伝えした航海灯。夜間航海時、規定の航海灯をつける規則にしたがい、その航海灯がついているかをこの装置で確認した。海の信号である。
そしてもう一つ、海の視覚的な合図といえばこちら。何が収納されているのかというと、アルファベットを表す国際信号旗。海上において船間で通信に使われる世界共通の旗である。
すぐ下には説明書きもある。1枚1枚に世界共通の意味があり、1字もしくは2字以上の符号によって通信が行われる。
風向・風速計。これは現在でも使われており、氷川丸では台風や低気圧による荒天時は厳重に計測がされているとある。
竣工当初に使われていた伝声管。

現代のようなハイテクなコンピューターのなかった時代、この操舵室は技術のカタマリであった。丸窓を丸ごと高速回転させて水滴を吹っ飛ばすクリアビュースクリーンにいたるまで、当時の最先端技術がここに集まっている。一部修繕がされているものの、細かい部分にいたるまで未だ多くの備品が使われていた当時のまま保存されていること自体奇跡的ではないだろうか。だからこそ産業遺産でもあり、国の重要文化財として今日も保存されつづけている氷川丸だが、風向・風速計にいたっては現役ですらある。そして機械のひとつひとつが渋いだけでなく、渋い中にもどことなく懐かしいやわらかさを放っているところもポイントだ。

そして何より、こうして24時間体制で見守ってくれる乗組員たちの存在があってこそ、安全な船旅ができたわけである。

この下は船長室へと続いている。
またまた急な階段があるため注意。上るも下るも階段急勾配スペシャルである。
青空に映える真っ白な灯台。港町横浜に欠かせない存在だ。

ここで接近できるのが旧白灯台。横浜最古の灯台である。船長室を見る前に、この灯台とも急接近できるため、ぜひ乗船したからこその距離で見てほしい。

明治29年(1896年)、横浜港山下ふ頭側の内防波堤に設立された白灯台。昭和38年(1963年)、現在の位置に移設されるまで船の通行標識をつとめていた。氷川丸前方に見える現役の赤灯台(横浜港北水堤灯台)とペアで活躍していたことからも、赤灯台とセットで説明されることが多い。

どこまでも見どころだらけの氷川丸。灯台ひとつをとっても続々と尽きない見どころはまさに灯台下暗しといったところか。この灯台も長らく横浜港を見守ってきた、横浜に欠かせない存在だ。乗船の際はぜひ改めてお見知りおきを。近づくとなかなかダイナミックである。

二引きの社旗は郵船の証し

氷川丸迫力のストライプ煙突もかなり近くなってきた。白地に赤い二本線。二引きのファンネルマークは郵船の証し。どこから撮っても絵になる船内は、船全体がフォトスポットでもある。

そして、煙突(ファンネル)。氷川丸といえばこの迫力の煙突がシンボルでもあり、チャームポイントでもある。白地に引かれた赤い二本線が特徴的だ。通称「二引き(にびき)の旗章」の生まれた背景は、日本郵船会社の誕生にまで遡る。

渋沢栄一が創立にかかわった共同運輸会社と、岩崎 弥太郎(旧字 岩崎 彌太郎/いわさき やたろう 1835~1885)を祖とする郵便汽船三菱会社が合併して誕生した会社が日本郵船である。合併前、郵便汽船三菱会社の勢いを快く思わない渋沢栄一、榎本武揚などの有力者たちは1882年(明治15年)に共同運輸会社を設立。両社は日本海運界の主導権をかけた熾烈な覇権争いを繰り返し、まもなく互いに消耗していった。最終的には時の農商務卿 西郷 従道(さいごう じゅうどう/つぐみち 1843~1902)が両社の共倒れという日本海運の危機を危惧し、協議を促すことに尽力。その結果、1885年(明治18年)、ついに両社が合併し、日本郵船会社が誕生することになった。しかしながら岩崎弥太郎は新会社の誕生を見ることなく、50歳の若さで他界している。

白地に赤い二本線の入った二引きはこのときにできた旗章で、当時の日本海事界を代表する三菱会社と共同運輸の二社の合併を象徴するが、一方で「日本郵船の航路が地球を横断するぞ!」という決意や岩崎弥太郎の世界一周の悲願を表したものとも言われている。

世界の港へ入港するあかつきには、この二本ラインを見るたびに日本郵船がいることが一発で判るというわけである。

そして、船長室。しばしメンテナンス中。とはいえシンプルな中にも船長の威厳を放つ。船のすべてを統括するキャプテンの部屋である。

そして操舵室の真下に船長室。船長専用の居室兼寝室だ。何か起こったときにはすばやくブリッジに上がって対応できるよう、この位置にある。船長室と操舵室は先に触れたあの伝声管パイプでつながっており、操舵室の航海士がいつでも船長に連絡を取れるようになっていたわけである。

現在はメンテナンス中だが、船長室はその職責に応じた威厳を放っている。メンテ中を見守りつつ、この巨大船のすべてを統括するキャプテンの担うはたらきの重みにしみじみである。

順路にしたがい、進んでいくとプロムナードデッキがゆるやかなカーブを描く。氷川丸の曲線美にも注目ですよゾーンである。

ふたたび屋外デッキへ

順路を進んでいくとふたたびデッキへ戻って来る。磨かれたチーク材を敷き詰めた木甲板の美しさ(主に船長室周りの床のチーク材が張替えがされている)、そして山下公園側をはじめ、氷川丸の生まれた旧横浜船渠(PartⅠ参照)のあるみなとみらいを一望できる眺めなど、デッキも見どころ大集結である。

デッキには椅子も設置され、見学者が船上からの景色を見てくつろぐこともできる。大さん橋にランドマークタワー、コスモクロック。横浜の陸上から海や船を見るのは比較的簡単だが、船に乗らないかぎり海から横浜を見ることはできない。船上から臨む横浜の景色は格別であり、ぜひこれも氷川丸で堪能してほしい。

ふたたび戻って来る屋外デッキ。手入れは大変だが、チーク材を敷き詰めた木甲板の美しさが光る。船上からの横浜を愉しみながら白いデッキチェアーでくつろぐのもまたよし。
デッキから臨む山下公園側。総トン数約12,000tの船から臨む横浜。親しみのある名所もいつもとは違って見えるだろう。
係留の鎖には海鳥たちが留まっていた。これもタイミングで、留まっているところを見られたらなかなかラッキーかもしれない。時には鎖にズラーーッと規則正しく並ぶように留まっていることも。

荒れ狂うシアトル航路の苦難

デッキにふたたび戻ってきたところで、いま一度思いを馳せてみたいのは荒海のシアトル航路。この苦難もまた氷川丸と切っても切れないエピソードのひとつである。

フロアでのダンスパーティ同様、乗客を飽きさせないよう、デッキでは運動会やすき焼きパーティなども催された。一方でそうした優雅なひとときとは裏腹に、荒海の大しけ時ではさんざんな目に遭った苦難の歴史もまたしみ込んでいる。

船客にとって快適な旅にするため常に努力を怠らなかった乗組員たちに対し、大海原はいつも穏やかな表情だけをうかべているわけではなかった。シアトル航路のルートは、千島列島、アリューシャン列島に沿って進み、アラスカ半島から南下してシアトルをめざすものだった。このルートが最短距離だったという。そして北の海はよく荒れた。穏やかといえるのは年間でも5月~7月までの3か月ほどしかなく、とりわけ冬季はひどく荒れたという。

1930年(昭和5年)12月18日午後1時、低気圧の中心に入り氷川丸が高波に襲われたときの記録。揺れるに揺れたシアトル航路。嵐のはげしさが伝わってくる。

上のイラストは荒れ狂うシアトル航海で氷川丸が大きな揺れに見舞われたときの記録である。1931年(昭和6年)12月にシアトルに向かった氷川丸は、8日間にもわたって大きな揺れに見舞われた。同月17日夜になり、揺れ出した氷川丸は翌日午後1時には低気圧の中心に入る。このときに高波に襲われ、左舷に29度、右舷に25度という大きな傾きを記録している。これはもうすさまじい揺れで、さかまく荒海に船室のソファやテーブルがひっくり返り、デッキに積んでいた金魚のたるが海中に転がり落ちたほどの惨事だったという。

氷川丸の航路はほとんど一年中荒れている北の海で、ときには煙突の中にまで波が入ったり、デッキのガラスも波で割れたり、高波や暴風雨にも晒されてきた。このようなとき、船客たちは船内の固定物にしがみついては船酔いと恐怖に耐え、ただただ嵐が去るのをじっと待つ以外どうしようもなかったという。揺れで体調を崩した乗客たちのため、船医とボーイは「お変わりございませんか」と看護に走り回り、乗組員も積荷を安全な場所に移すなど安全確保に心を砕いた。

戦後、シアトル航路に復活後はグランドピアノまでもがひっくり返る惨事になったという。PartⅠでもお伝えしたあの豪華な社交室のグランドピアノや大切な積荷が、ひっくり返ったのである。デッキにはいたるところにストームレール(strom rail)という手すりが設置されているが、嵐のときはこの手すりにつかまっていないと危なくて歩けないほど揺れたとある。ストームレールという名前が表すように、荒れ狂う北太平洋の航路では手すりにつかまっていなければ立っていることさえ困難となった。波の力のすさまじさが改めて分かるとともに、これらも氷川丸の乗り越えてきた「波乱万丈」「激動」と呼ばれる航跡のひとつだ。

そのような航海時代を終え、今や荒波にさんざん揺さぶられたことなど想像もつかないほど平和な横浜港に、氷川丸は巨きな身を落ち着けている。横浜の景色に一筆を添えるばかりか、もはや氷川丸なくして山下公園や横浜の景色はないといってもいいほど、多くの人びとに愛されつづける存在となった。

灯台同様、今日も横浜港を見守るようにたたずむ氷川丸。嵐に負けない、ハードなシアトル航海仕立ての頑丈な船体といい、その威風堂々たる風貌が一段と迫力を増して見えるのは、こうした激動期を乗り越えてきた足跡を知ってこそだろう。どんなものを見るにせよ、その歴史を知っているのと知らないのでは、見え方が全く変わってくる。

知られざるヨコハマと会おう、オープンデッキ

デッキを歩いていくと、オープンデッキへとつづいている。氷川丸では土日祝にこのオープンデッキを開放している。土日祝の10時~16時という限られた時間のみに立ち入ることができるが、このオープンデッキも見逃せない。知られざるヨコハマ、せっかく来たからにはぜひここでも逢っておこう。

「16時終了だよ!」とキャプテンハマーが告げながら案内しているオープンデッキ。ここも含めてゆったり見学するためにも、早めの時間がおススメである。
いかにも写真撮影にふさわしい舵輪と氷川丸の名前入りフォトスポットもある。デッキでは通常機会が多いであろう「山下公園から撮る」から、「山下公園をバックに撮る」に変わる。
そこにはドーンとだだっ広い空間が拡がる。やはりどこまでも広い船であることを実感!

マストに翻る「われは氷川丸なり」

見上げれば先端の社旗ともども、先に触れた国際信号旗も海風に悠々と泳ぐ。

ここで視点を上に向けてほしい。マストに翻る4枚の信号旗が見えると思うが、じつはここには意外と知られていない意味がある。

旗は国際信号旗で、上から「J」「G」「X」「C」となっている。この4文字はじつは「氷川丸」を表すコールサイン。船に個別に割り当てられた無線呼び出し符号で、船の識別に使われている。つまり「J・G・X・C」といえば「氷川丸」のことで、この4枚の旗がマストに掲げられていれば船名が分かるというわけである。高いところに掲げられているものの、意外とこの意味を知る人は少ない。これを知らずしてどうするのだというほどの、氷川丸の名札である。先の操舵室で信号旗を単独もしくは数枚組み合わせて使うことで意味を表すことに触れたが、信号旗はその船の名前を表す海のアルファベットだ。映画「コクリコ坂から」をご覧になった方であれば、映画の中で主人公 松崎海が毎朝信号旗を揚げるシーンがおなじみかと思うが、あの信号旗は「安全な航行を祈る」という意味を表している。同様に、氷川丸のマストに掲げられた4枚の旗にも海の男たちの心意気――海で働く誇りや船への愛情、平和への願いなど、あらゆる思いがこめられている。

この4枚の旗は山下公園側からも見ることができるだろう。かつて横浜が進駐軍に占領されていた時代、この4枚の旗と日章旗は掲揚が許されず、掲げることができなかった。ふたたび国旗や信号旗を掲げることができるようになったのは、1952年(昭和27年)のサンフランシスコ平和条約発効後。氷川丸も進駐軍による横浜占領が終わった翌年、自分の名前を取り戻し、ふたたび旗を掲げた。氷川丸はこの年からシアトル航路に復帰し、ふたたび貨客船として多くの船客を乗せられるようになった。

船齢30年をむかえ、1960年に多くの人びとに別れを惜しまれながらの引退後も、自らの名札「われは氷川丸なり」は海の男たちの思いとともに今日も掲げられつづけ、横浜の空に泳ぐ。

港ヨコハマ、今日も海風に悠々と泳ぐ旗を見上げるそのとき、そこにこめられた思いや背景にもぜひ心を留めてほしい。かつての悲しい時代を乗り越え、やっといま一度掲げることができるようになったあの4枚の旗には、海の男たちの心意気もまた翻っている。

こちらにも舵輪あり。ここでも手を触れる人が続出する。これも山下公園側からは見えない。
そしてその先には・・・
でん!!と置かれたアンカーがチェーンで括られている。通常まず見ることがないだけに、これもなかなかの迫力である。
先端に掲げられた日章旗も悠々と泳いでいる。実際間近で目の当たりにすると山下公園から見るよりもだいぶ大きいことが分かる。
オープンデッキから臨む横浜港。この日は大さん橋にダイヤモンドプリンセス号が来航していた。運がいいと、このように豪華客船が見られることも。
みなとヨコハマ。スリルヨコハマ。このアングルから横浜を見たことがあるだろうか。せっかくオープンデッキに来たからにはぜひここからも一望を!いやはや、スリルヨコハマである。

・・・という具合のオープンデッキ。迫力のデカアンカーに、ちょっとユニークなコードネームをもつ信号旗、そして海から臨む港ヨコハマ・・・オープンデッキでは意外と知らない旗の意味との遭遇や山下公園側からは見られないものが見られる点もポイントだ。別途料金が要ることもなく、入館料のみでOKかつ知られざるヨコハマが待っているわけである。

となるとこれはもう通常の船内見学に加え、オープンデッキも開放日を見てぜひ見学プラスアルファにしてほしい。ただ悪天候時は中止になったり、貸切イベントや工事などがあると予告なく中止になる場合もある。併せて、オープンデッキも含めた船内見学をゆっくり存分に堪能するためにも、時間にゆとりをもった早めの乗船がおススメである。というのも、時間も迫って来ると係員の方に「もうじき閉館ですよー!」とお声掛けがされる。(管理がしっかりしているためでもあるが、これがけっこう急かされる。)

ということで、見学前には一度公式ページでオープンデッキ開催日をご確認の上、天気がいい日を狙って行ってみてほしい。デッキでは知られざるヨコハマの素顔との出逢いが、優しく待ってくれている。

そしてふたたび先のデッキへ戻り、順路へ。「さあ、どうぞ」と言わんばかりに開かれているドアが優しい。
このあとは機関室へ続くが、お急ぎの方は右矢印方向から下船できる。実際、数回に分けて見学してもいいほど見ごたえ十分なことは確かだ。

次回予告

前回に引きつづきの氷川丸見どころ紹介はいかがだっただろうか。壮観な氷川丸も並々ならぬ航跡や秘話を知りながらその全貌を見つめると、改めてスケールの大きさを知ることができる。次回PartⅣはいよいよ最終章。この船の心臓部、機関室へと迫っていく。お楽しみに!

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