日本三大秘境徳島・祖谷に伝わる平家落人伝説とは?観光ガイドには載らないレアスポットもご紹介!【祖谷観光レポート・後編】
" target="_blank" rel="noreferrer noopener">祖谷観光レポートの前編では、祖谷(いや)の観光地をメインにした「観光編」をお届けしました。今回は平家落人伝説をメインにした場所をめぐる「平家落人伝説編」です。

徳島県出身の私が、中学時代の恩師と三好市地域おこし協力隊の方のサポートをいただき、一般の観光情報誌には載っていない、知る人ぞ知る平家の落人伝説の場所と物語をレポートします。

今回の取材で参考にした資料

秘境・祖谷に伝わる平家落人伝説とは

源平合戦で敗れ、僻地へと落ちのびたとされる平家の落人伝説は全国各地にあります。その伝説の中でも祖谷は日本有数の質と量を誇っています。

平家物語では、平家は1184年壇之浦(現山口県下関市)の戦いに敗れ、幼い安徳天皇は入水したことになっています。その際平清盛の甥である平教経(後に、幼名の平国盛に改名したと伝えられる/以下、平国盛と表記)も源氏の武者2人を道連れに海に飛び込みました。

しかし、祖谷に伝わる落人伝説では違っているんです。

壇ノ浦で入水したとされる安徳天皇は、実は影武者でした。平国盛は本物の安徳天皇を連れて阿讃山脈を越え、山深い祖谷へとたどり着き、この地で身を伏せました。しかし、安徳天皇は高熱が原因でわずか8歳で祖谷の地にて亡くなってしまいます。国盛は悲しみ、平家再興を断念。そのまま祖谷で暮らしました。祖谷で今でも生活をしている阿佐家は平家の子孫だということです。

このような言い伝えが残る祖谷の地を、伝説とともに巡ってみましょう。

祖谷は奥深い山の中にあります

祖谷の平家落人伝説を知るための起点「東祖谷歴史民族資料館」

東祖谷歴史民族資料館

東祖谷歴史民俗資料館では、源平合戦の正史と祖谷の平家落人伝説をパネルや写真で紹介しています。また、平国盛の子孫である阿佐家には、平家ゆかりの赤旗が伝わっていますが、そのレプリカも展示されているそうです。

まず東祖谷歴史民俗資料館に行き、平家落人伝説の全体像を知ろうとしましたが、残念ながらコロナ感染拡大予防のため休館となっていました。

そこで、各種資料を手に、落人伝説の言い伝えが残るスポットを回ってみることにしました。観光ガイドにも掲載されないような、知る人ぞ知る場所もバッチリ行ってきました!

安徳天皇のお墓?栗枝渡八幡神社

鳥居のない八幡神社

まず、最初に足を運んでみたのは栗枝渡八幡神社(くりしどはちまんじんじゃ)です。

この神社には鳥居がありません。経済的な事情で建てられなかったのではなく、わざと鳥居を建てないのだそうです。「栗枝渡八幡神社には、鳥居は絶対に建ててはならない」という厳しい言い伝えがあったからです。代々氏子や神社総代は現在に至るまでその言い伝えを忠実に守ってきたのです。

八幡神社の社叢を説明した解説パネル

この神社には、なぜ鳥居を建ててはいけないのか。

実はこの八幡神社でお祀りしている御神体こそが、安徳帝だからだそうです。神社という形をとっていますが、実際には安徳天皇のお墓なのです。お墓には鳥居は建てないため、決して建ててはいけないということなのですね。実際に行ってみると、確かに鳥居がありませんでした。

神社の奥深くに進むと、安徳天皇の御火葬場も!

神社境内にある御火葬場。杭の奥には、しめ縄で結界が張られています。

さらに境内を奥深く入っていきましょう。

すると、神社の境内には「御火葬場」と書かれた杭が建てられた場所をみつけました。杭の奥には二坪ばかりの土地があり、周りにしめ縄が張られています。ここは幼くして亡くなった安徳天皇を火葬した場所だと伝えられています。

京では帝として多くの人にかしずかれていた安徳天皇。源平合戦に敗れ、子どもの足で四国の山脈を超え祖谷の山奥に入りました。しかし、この地で高熱のため亡くなったと考えると心が痛みます。伝説を思うとなんだか切なくなる場所です。

私がここに参拝したのは気持ちのいいお天気の日でしたが、この「御火葬場」の周囲だけは少し雰囲気が違っていました。この場所だけ時間の流れが別になっている感じがして、誰も足を踏み入れてはいけない聖域ということがよくわかるような場所でした。

聖域らしい、厳かな雰囲気が漂う「御火葬場」

栗枝渡(くりしど)という風変わりな地名の由来とは?

この栗枝渡八幡神社のある場所を「栗枝渡(クリシド/クルスド)」と呼びます。この地名も伝説に由来しています。

もともと安徳帝は祖谷で「京上」と呼ばれる場所に住んでいましたが、そこの御殿が大水で流されました。

そこで、今の八幡神社の付近に住まいを移られることになりましたが、途中の川で橋が流され、渡れません。そのときに大きな栗の倒木を見つけ、流れの上に渡したことで、帝が渡ることができました。そのためこの付近の地名を栗枝渡というようになったのだそうです。

平家の鉾を納めた鉾神社

鉾神社の鳥居

つづいて訪れた鉾神社(ほこじんじゃ)もまた、安徳帝ゆかりのスポットです。安徳天皇が所持していた鉾を納めていたという伝説に基づいて、もともとこの神社は鉾大明神と呼ばれていました。そして伝説に基づき、江戸時代末期の1862年、この神社を正式に「鉾神社」と改称することになったそうです。

しかし平国盛の末裔とされる阿佐家には、神社に関係するもう一つの言い伝えが残っています。

ある夜、国盛は鉾の夢を見たそうです。その夢の中で「これは平家守護神の御鉾で、厳島神社に祀られている。平氏の生き残りである汝が守り祀れ」とお告げがありました。そのため国盛は厳島神社に使いをつかわし、祖谷の地にてご神体を分祀したいと願い出て、許可されたということです。

祖谷の土地の人はこの2つの言い伝えを聞いて育ってきたので、鉾神社では、安徳天皇と平国盛の両方の鉾をお祀りしていると思っているということでした。

平国盛が植えたとされる鉾杉

その鉾神社のすぐ上に、鉾杉(国盛杉)と呼ばれる樹齢約800年の杉の巨木があります。この鉾杉を初めて目にしたときに、おもわず「うわあ」と声がもれました。それほどこの鉾杉の生命力がすごかったのです。

存在感の凄い鉾杉。県指定の天然記念物にも制定されています。

高さ35m、周囲11mの巨木で、何より印象に残ったのがその木の持つ雰囲気です。大地をわしづかみするかのように根が張り、大きな太い幹は天をつらぬくようにそびえ立っています。矢を突き立てたように生えている何十本もの枝は猛々しく、威風堂々とした素晴らしい存在感のある杉です。

鉾杉について説明した解説パネル
複雑にからみあい、強い生命力を感じさせる幹と枝

この杉は平国盛が植えたと言われています。当初、国盛は平家再興を目指していたので、祖谷にそのまま定住するつもりはありませんでした。準備ができたら再び山を越え、京に攻めのぼろうと考えていたのです。

そして思いました。「私が去った後の祖谷の人々は、私のことを忘れてしまうのだろうか」と。

そこで、国盛は木を植えることを思いつきました。木が成長するように、平氏の勢力も大きくなり、祖谷の人々もこの木を見るたびに私のこと、そして平氏の隆盛を思うようになるだろうと。

しかし、安徳天皇は祖谷の地で夭逝。国盛は、京に攻めのぼることもなく、祖谷の地で生涯を過ごしました。

国盛杉は大きくなったけれど……

平家の末裔が実際に住んでいた!「平家屋敷阿佐家住宅」

立派な茅葺きの平家屋敷阿佐家住宅

鉾神社から車で約30分の場所に平家屋敷があります。祖谷の平家落人伝説の中で、平国盛の子孫といわれる阿佐家の屋敷です。この平家屋敷は、そこにお屋敷があると知っている人でなければ、まず気づかない場所にあります。

駐車場から脇道へ

今は観光地になり、看板も置かれていますが、駐車場からこのように下に行く道があり、

さらに折れ曲がり……

またさらに下り、やっと平家屋敷があることがわかります。

こんな隠れ里に、立派なお屋敷があるなんて……。

昔はもっと樹々や草が生い茂っていたでしょうから、追手が探しに来ても、そうそうわからない場所です。

平家の落人伝説を信じるとしたら、わざとわかりにくい場所にお屋敷を構えたということなのでしょう。写真からもわかる通り、とても立派なお屋敷です。残念ながらコロナ感染拡大防止のため中は見られませんでした。

この平家屋敷は、正面の玄関がとても立派なのが印象的です。昔は、一般の人はお屋敷の門から中に入れなかったそうです。その話を聞いても「そうだろうな」と思うくらい、この平家屋敷は品格のあるたたずまいをしていました。

この平家屋敷の阿佐家には「平家の赤旗」が家宝として伝わっているそうです。もともと赤と紫2色で染められていたそうですが、今は変色し赤は白に、紫は黒色になっているということでした。大旗と小旗があり、大旗は本陣用、小旗は戦陣に用いられたとされています。

日本最古の軍旗として、歴史資料としても貴重なものだそうです。これも、阿佐家が平国盛の末裔だということを思えば、阿佐家にあって当然のものだといえますね。国盛が所持していたものを先祖代々伝えてきたのでしょう。

平家の末裔「阿佐家」の伏せ墓

墓碑のないお墓

祖谷地方の風習では、お墓には墓碑を立てるのが一般的です。しかし、阿佐家代々のお墓は「伏せ墓」といい、墓碑がありません。もちろん先ほど紹介したお屋敷に住んでいた人たちですので、お金の問題ではありません。

この地の平穏と子孫の繁栄を図れ。名を消して墓に入れ」と国盛が遺言を残したそうです。源氏の追討から逃れるために、お墓に墓碑を立てなかったのでしょう。

どのお墓が誰のお墓というのは、代々口頭でのみ伝えられているそうです。石を積み上げ、一番上には平らな石を置いています。高さはそれほどなく、石はすべて苔むしていました。

この伏せ墓に実際に訪れてみたのですが、眠りを邪魔してはいけないような、閑静で清浄な雰囲気が漂っていました。

お墓の石は苔むしていました

平家の落人伝説に深い関係のある「剣山」

日本の「百名山」にも選ばれている剣山

日本の百名山にも名を連ねている徳島県が誇る剣山(標高1,955m)。今回は足を運びませんでしたが、この剣山もまた、平家落人伝説と深い関係があります。

剣山は、昔は「石立山」と呼ばれていたそうです。しかし、安徳天皇がこの山に平氏再興を願い天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)を納めたということで、それから「剣山」と呼ぶようになったそうです。

また、剣山の頂上付近に「平家の馬場」と呼ばれる場所があり、そこで平家の落人たちが騎馬の練習をしたという伝説も残っています。

まとめ

とても参考になった「祖谷の語りべ」

私の実家は徳島県ですので、祖谷のかずら橋は何度も渡ったことがあり、平家の落人伝説も知っていました。しかし、「祖谷に平家の落人伝説がある」というくらいしか知らず、どこにでもある落人伝説の一つだろうと思っていたのです。

今回この取材をするにあたり、ネットの記事や動画、文献などを調べてみて、もしかしたらこの伝説はとても信ぴょう性があるのではないかと感じました。

平国盛の末裔とされている阿佐家が存在すること。阿佐家には、実際の遺物として平家の赤旗が代々伝わっていること。阿佐家のお墓は伏せ墓で、誰のお墓かというのは口頭でのみ伝えられていること。

そして、この交通の発達した現代においてさえ、祖谷に行くのは険しく狭い山道で、かなり大変です。今でもこんなに大変なのに、千年の昔はどれだけ大変だったのでしょうか。わざわざそういうところを選んで住んだのは、隠れなければならない事情があったからなのかもしれません。

道幅の狭いつづら折りの山道を一日かけての取材となりましたが、今まで知らなかった郷土の伝説の地を巡り、とても勉強になりました。歴史に興味のある方はぜひ祖谷に来て、平家の落人伝説ゆかりの場所を巡ってみてはいかがでしょうか。

もしまだ未読でしたら、「かずら橋」を中心とした祖谷観光についてまとめた「前編」の記事もあわせてお読みいただければ嬉しいです!

祖谷に伝わる平家落人伝説を知るための関連情報

〇東祖谷歴史民俗資料館
所在地:徳島県三好市東祖谷京上14-3
電話:0883-88-2286
営業時間:10:00~16:00
定休日:毎週水曜日、12~2月の土・日曜、祝日及び年末年始(12/28~1/3)
料金/大人:410円、小人:100円(中学生は210円、小人とは小学生)
https://miyoshi-tourism.jp/spot/higashiiyamuseum/

〇栗枝渡八幡神社・御火葬場
所在地:徳島県三好市東祖谷字栗枝渡
https://www.awanavi.jp/spot/20486.html

〇鉾神社・鉾杉
所在地:徳島県三好市東祖谷大枝
https://miyoshi-tourism.jp/spot/hokosugi/

〇平家屋敷阿佐家住宅
所在地:徳島県三好市東祖谷阿佐244
営業時間:9:00~16:00
定休日:毎週水曜日
季節休業:12月28日~2月末
料金:見学料無料
https://miyoshi-tourism.jp/spot/__trashed/