赤い靴秘話PartⅡ~邂逅~それぞれの赤いくつ

PartⅠでは、横浜・山下公園に童謡「赤い靴」に因んだ「赤い靴はいてた女の子像」がある話にはじまり、この童謡には実際のモデル 岩崎きみちゃんという女の子が存在するという説に触れた。本来一緒に暮らすという母子の自然なあり方ができなかったきみちゃんは、実際にはアメリカに渡らないまま東京でその短いいのちを終えている。

麻布十番の奇跡—不幸を繰り返さないために

このような不幸を繰り返さないことを願い、かつてきみちゃんの暮らした麻布十番の地に、ひとつの像を建てることに心を砕いた方がいる。母と子の絆を「きみちゃん像」に託した、山本 仁壽(きみとし)さんだ。

港区麻布十番商店街にある広場「パティオ十番」に立つきみちゃん像。設置当初をはじめ、今でも訪れる人の足は絶えない。

麻布十番の生き字引きでもある山本さん。麻布十番の街に根づいた活動のほか、現在は閉店しているが、山本さんは当時このきみちゃん像の向かいで洋品店 ローリエ・ヤマモトを営んでいた。

前述のかよの三女 岡そのによる北海道新聞への投稿を発端に、北海道テレビが取材を重ね、きみちゃんが生前この麻布十番にあった孤児院に預けられ短い生涯を閉じた説にたどり着いた。その後、1978年(昭和53年)にはドキュメンタリーとして全国放送がされ、日本中に拡がったそのニュースはやがて山本さんの耳にも届く。かつて山本さんが、麻布十番広報誌「十番たより」の広報部長だったころのことであった。

「赤い靴の女の子」と麻布十番が関係していた事実が分かると、山本さんを建立の中心メンバーとした麻布十番商店街の方々の手により、何か母と子の絆のシンボルになるメモリーモニュメントを造りたいということになった。かくして、1989年(平成元年)2月28日、地元の人たちの憩いの場でもある広場「パティオ十番」にきみちゃん像が建てられたのだ。

このおさげの女の子がきみちゃんだ。全国各地からはゆかりの方々の訪問も相次ぎ、山本さんは今でもそんな心のおつき合いが続いているという。

18円から1000万円へ。一日も絶えぬ募金

それは麻布十番にきみちゃん像ができてから始まった。像ができたその日の夕方、誰かがきみちゃん像の足元に18円を置いたという。それがチャリティーの始まりだった。

その後、1日として途絶えることなく、きみちゃんの足元にはいくらかのお金が置かれつづけた。多くの人びとに支えられたチャリティーの輪は途絶えることなくつづき、1円、5円、10円という小さな、けれどもとてもきれいな浄財の蓄積は毎年世界の恵まれない子どもたちのため、全額ユニセフに寄付されてきた。当初18円から始まったその寄付金の蓄積は、18年の間で総額1000万円を超えたという。令和3年3月31日までの累計は1509万円にものぼったといい、平成から令和になってもこのチャリティーは続いている。山本さんが途中からお金を入れる募金箱をきみちゃん像の足元に設置するようになったのちも、善意の募金は絶えずつづいた。時には大口の寄付もあり、集まった寄付金はユニセフ以外にも阪神大震災の義援金や、スマトラ大震災の義援金としても贈ったという。

赤い靴のきみちゃんに関わること、もう40年になるという山本さん。Webサイト「麻布十番未知案内」上できみちゃんチャリティー活動について発信し、これまでに各メディアでもきみちゃん活動継続の意向を示してきた。このたび取材申し入れをした2024年5月現在、ご自身でも82歳になられ、お疲れも覚えられているということでインタビュー取材については丁寧にお断りされたが、お歳を召しておられる今もなお、きみちゃんのことを大勢の方々に知っていただきたいというのぞみをお持ちのままであった。

そして今日も途絶えることなく、チャリティーはつづいている。きみちゃん像の前を通りかかるやいなや足を止め、きみちゃんの悲しい過去について綴られた台座プレートの文面をじっと読む人びと。誰に強いられるでもなく、チャリン、チャリンと募金箱へ小銭を入れていく人びと。つづいてその後ろにいた人もまた、ごく自然なことであるかのように純粋に募金をしていた。

いつしかこの光景が、パティオ十番の日常の姿となった。9歳の短いいのちを終えていながらも、きみちゃんは今でも人びとの心の中に生き続け、9歳のまま歩き続けている。

※山本様ご了承の上、サイト『麻布十番未知案内』より一部抜擢。

現在は青山霊園に眠る

現在、きみちゃんは港区六本木の青山霊園にある鳥居坂教会の共同墓地に眠っている。

青山霊園東1地区、墓所地番12-22-2にある鳥居坂教会の墓地。
歴史は意外と近くにある。華やぐ青山に六本木、麻布界隈—そこに童謡の軌跡と秘話が潜んでいるという深遠な事実を、静かに心に留めておきたい。
墓誌には戸籍上の「佐野きみ」の名前で刻まれている。これまでの生涯を思い、その名を指でなぞるようにそっと触れた。

当時、執念に近い熱意で赤い靴の女の子の追跡をした北海道テレビ記者 菊地寛氏が埋葬者台帳に発見したのは、


             佐野きみ 静岡県平民 
             明治四十四年九月十五日死亡
             死因 結核性腹膜炎
             墓番号 二等一二ノ二二ノ三


「赤い靴はいてた女の子」がアメリカで暮らした気配はなく、アメリカに来た事実は掴めないままだったが、女の子は9歳の生涯を閉じていたのであった。

現在、埋葬記録は親族の方しか見られないことになっている。管理事務所の方でさえ、きみちゃんの記録は見たことがないという。しかしながら「現代のようなデータのない明治時代の記録になるため、手書きでの記録があると思う」と事務所の方はつづけた。「きみちゃんのことを調べていらっしゃるのですか?もしかしたら調べた方が明治に書かれた埋葬記録を見たのかもしれない」。

この言葉に、私の脳裏に当時の毛筆で書かれた文字がびっしりと並んだ赤茶けた台帳が瞬時にうかんだ。点と線がつながる。当時菊地氏が同じこの墓地の管理事務所で見たという、あの記録だ。

アメリカに渡った菊地氏は、ヒューエット夫妻が晩年を過ごしたパサディナへ向かい、隣町のグランディールにあるフォレストローン墓地に夫妻の墓も見つけた。

           Charles W. Huett 1864-1935
           Emma A. Huett 1870-1964

芝生に埋もれ、静かに眠りつづける墓石は、もはや何も語ってはくれない。きみちゃんを養女にして帰米するはずだったヒューエット夫妻も、きみちゃんの「その後」については知らされていなかったようである。

猛吹雪にさらされる凍てついた北海道の原野を行ったばかりか、手持ちの限られた切り札を手がかりにアメリカにまで渡った菊地氏。はるばる広大な合衆国。きみちゃんはいったい、どんな人生を歩んだのか—。その有力な手がかりとなる謎多きヒューエット宣教師の消息を追い、現地で知り得た情報を頼ってはバスを乗り継ぎ、車にも乗って各地をたずね回った。広大なアメリカ大陸にうかんでは消える、か細い少女の後ろ姿。難航する調査に何度となく挫かれては、わずかでも可能性や一縷ののぞみがあればそれを頼りに東へ西へ奔走し、証言や資料をひとつずつ照合し追求しつづけた菊地氏。メソジストの隠遁地をたどり、市役所や墓苑をたずね、ロッキー山脈を越え、コロラド州デンバー、そしてロス郊外パサディナ。岡そのさんの投書を機に5年という長い年月をかけ、手がかりの線を根気よく縒り合わせるようにきみちゃんをたどっていった菊地氏の姿勢に敬服するとともに、菊地氏も当時本当に不思議な形でこの世界に導き入れられたと思う。

9歳という短い命を閉じ、この世で薄幸な生涯を送ったからこそ、母娘の天国での再会の安息をそっと祈り、私は墓地をあとにした。

青山霊園管理事務所玄関の片すみに座るきみちゃん。
きみちゃんのお墓は公道からわずか数メートル。乃木坂駅下車後、都道319号沿い側の階段からが一番近い。

全国に建つ「きみちゃん」

「きみちゃん」の像は山下公園や麻布十番のほか、全国8か所に建っている。横浜の 山下公園内に「赤い靴はいてた女の子像」が作られたのは1979年(昭和54年)のことだが、この像ができたことを機にしたかのように、全国各地で赤い靴の像ラッシュが起きた。

このほか、きみちゃん像は生まれ故郷である静岡県日本平、母かよが入植した開拓農場のあった北海道留寿都村、かよ夫妻が晩年を過ごした北海道小樽市の運河公園にもある。いずれにしても麻布十番のきみちゃん像が、全国各地に像を造らせた原動力となった。

◆横浜市中区・・・『赤い靴はいてた女の子』山本 正道 作/1979年11月11日 完成

「横浜の埠頭(はとば)から 汽船(ふね)に乗って」の歌詞のゆかりで一番最初に作られた。赤い靴を愛する市民の会(のちに赤い靴記念文化事業団に改称)から寄贈された。山下公園中央にアメリカのある海を見つめ、座っている。

◆横浜市西区・・・『赤い靴はいてた女の子』横浜駅中央自由通路の真ん中付近に建つ。山下公園の像のミニチュア版。同会がミニチュア版(999個制作されたうちの1個)を1982年(昭和57年)8月、横浜駅へ寄贈し、当初、同駅南口に設置されていたが駅改良工事に伴い1998年(平成10年)に撤去、その後は保管されていた。2010年(平成22年)12月、同駅自由通路に移設された。2本のガス灯に挟まれる形で座っている。

◆東京都港区麻布十番・・・『きみちゃん』佐々木 至 作/1989年2月28日 完成
きみちゃんが短い生涯を閉じた孤児院が麻布十番にあったゆかりで建てられた。身長わずか60cm、ブロンズと赤御影石でできている。おさげ髪をぴんと後ろにはね上げたきみちゃんがやさしくほほえみ、像の小ささとあいまっていっそうかわいらしい。

◆静岡市清水区・・・『母子像』高橋 剛 作/1986年4月 完成
きみの生まれ故郷、静岡県清水市を見下ろす日本平山頂に、母子が向かい合って建つ。山下公園の「赤い靴はいてた女の子像」との大きな違いは、女の子ひとりではなく母子の像であるということである。碑文には母子の悲しいエピソードも刻まれる。母と子が手を取り合い、一見ほほえましいが、実際には夜逃げ同然に故郷を追い出された。「離れ離れになってしまった薄幸の母子を故郷であるこの清水でふたたび相い合わせよう」という市民の声と全国からの協力により、建てられた。

◆北海道虻田郡留寿都村・・・『母思像』米坂 ヒデノリ 作/1991年10月 完成

母かよが入植した開拓農場のあったゆかりで作られた「赤い靴ふるさと公園」にある。童謡「赤い靴」の里留寿都と言われているものの、実際には「赤い靴の女の子」きみちゃん自身は留寿都村には来ていなかった。しかし、娘を案じるかよの親心がもっとも濃厚で強かったといえるのが、この留寿都の開拓農場にいた時だっただろう。留寿都村ではきみの妹のぶが生まれたと言われ、小屋中に産声があふれたそのとき、かよはきみのことも想っていた。「この子はきみの身代わりかもしれない」。農場の人たちは去年過労で亡くなった辰蔵が女の子になって生まれ変わったのだと喜んだという。


◆小樽市・・・『赤い靴 親子の像』ナカムラ アリ 作/2007年11月23日 完成
小樽運河公園に建てられた。母かよと夫である鈴木志郎はきみちゃんのことを生涯思い続け、敬虔なクリスチャンとして晩年は小樽で暮らした。除幕式の日であった11月23日は奇しくも志郎の命日だという。

◆函館市・・・『赤い靴 少女像』小寺真知子 作/2009年8月7日 完成
北海道 函館の西波止場美術館前の広場に建てられた。故郷を追われるようにして母かよとまだ赤ちゃんだったきみちゃんが初めて北海道に渡ったのは明治36年。当時、北海道の玄関は函館の東浜桟橋。吹雪の桟橋に降り立った母子は、どれほど寂しかっただろうか。その桟橋近くの広場にきみちゃん像ができた。赤ちゃんではなく、成長してハンドバッグを持っている。

◆青森鰺ヶ沢町・・・『赤い靴親子三人像』田島 義明 作/2010年11月3日 完成
義父 鈴木志郎の生まれ故郷、青森県鰺ヶ沢町の海の駅「わんど」に創られた。家族愛をテーマに、「すべての家族が幸せになりますように」との願いが込められている。

横浜駅自由通路にある「赤い靴の女の子像」。2本のミニチュアガス灯に挟まれる形で設置されている。

終わりに -邂逅-愛の記憶、人の心の不思議

遠くから汽笛がひとつ潮風に乗って響いてきた。鼻腔をくすぐるように通っていく潮の薫りが、海が近いことを告げる。ここは横浜の玄関口。行き交う外国船。開港当初から幾多の別離の哀哭ドラマを見てきた波止場に臨む山下公園、アメリカに一番近い場所で、「赤い靴はいてた女の子」はアメリカの方を向いて座っている。前回取り上げたあかいくつ号はこの山下公園の前を通る。通過時は公園内の木々の間から赤い靴の女の子像もかろうじて見えるといったところか—。車窓から像を見送ると、出発点であった桜木町駅前へまた戻っていく。あかいくつ号に最後に駅前にやさしく戻してもらいつつ、人の心のもつ不思議に思いを馳せた。

今日、国内ばかりか、世界的に暴力的な世の中になりつつある。本質的に自己中心的な人間のエゴをはじめ、いじめや差別というものは村社会や学校、職場といったある程度強制力のあるコミュニティの中で常々発生する。今では不適切な言葉として使わなくなったが、かよさんやきみちゃんの生きる時代を取り巻くものに「てゝなし子」という差別用語もあった。長い歴史のなか、こうした現象は昔から脈々とつづいてきたものではあるが、当時の延長線上にある21世紀になったいまでもなお、差別を根源としたものも含めた痛ましい事件などからもそうそうなくならない根深さを改めて痛感する。物もサービスもその幅も、明治当初の社会とは比較にならないほど物質的には豊かになったにもかかわらず、心荒んだ現代の世相を反映する痛ましい事件は今日も相次いでいる。

だからこそ山本さんも仰る「何気ない日々の積み重ね」の尊さを思い、そこに心を留めつつあった。街やそれがあることの尊さを伝えるべく記事を一つずつ世の中に送り出しては積み重ねていくなか、私の記者としての思いともまたきみちゃんを伝えつづける山本さんのような方々とも重なっていったのである。「出発は横浜の赤い靴像ですから、横浜の皆さんが正しく発信して下さればと思います、よろしく」。当記事執筆にあたるメールのやり取りで行間にあたたかいやさしさをにじませ、山本さんはそう話しを結ばれた。

麗らかな観光日和、山下公園で赤い靴の女の子像とその傍に立つ「赤い靴」の歌碑を見た観光客は、こうも話していた。「歌詞4番まであるんだねえ。」

じつは歌詞は5番まであり、雨情のご子息 野口存彌氏により発見されたそれは幻の歌詞とも言われる。

雨情は歌の最後をこう締めくくっている。

「生まれた日本が恋しくば 青い海眺めているんだろう 異人さんにたのんで帰って来(こ)」

この歌詞が公表されることなく、削られた理由もまた謎のままだ。雨情にしか知り得ない、何か思うところがあったのだろう。雨情にかぎらず、童謡は詩人たちのメッセージを孕んでいる。そしてその秘めたる思いを読み解くとき、新しい景色が見えてくる。

あかいくつ号に、由来の「赤い靴」。どちらも今日も人の思いを乗せ、街と人の思いを繋いで走りづづけている。示される、今ここにある奇跡。両者の共通点は、今目の前にある日々がすでに奇跡であることをそっと示してくれる点にある。平和な毎日は、当然の権利ではない。にもかかわらず、あまりにも平和な日々の中にあり、ともすればそれが当然であるかのように受け止めてしまいがちだ。平和な毎日があることに慣れてしまわないよう、まずこれを奇跡として受け止めることの大切さを改めて示されたように思った。それが今回取り上げたふたつの”あかいくつ”からの啓示でもあった。何気ない平凡な、でもやさしい毎日毎日につつまれているということが本当にすでに奇跡の連続だということを、ふたつの”あかいくつ”は改めて示してくれたのだった。

「きみちゃん」にかかわる方々やゆかりの地を取材し、歌になるまでの軌跡を追っていったところ、この歌のモデルはきみちゃん本人というより、岩崎かよさんや雨情の脳内で事実化したきみちゃんであり、きみちゃん像であることにもたどり着いた。雨情自身、「赤い靴」にモデルがあるとはどこにも書き遺しておらず、公言もしていない。本当のところは、謎に包まれたままだ。ただ、雨情は著書『童謡と童心藝術』の解説で、このような一節を遺している。

「この童謡は表面から見ただけでは、単に異人さんにつれられていつた(いった)子供といふ(いう)うふうにすぎませんが、赤い靴とか、青い目になつてしまつただろう(なってしまっただろう)とかいふ(いう)ことばのかげには、その女の児(こ)に対する惻隠の情がふくまれていることを見遁さぬようにしていただきたいのであります」。

「惻隠の情」とは相手の苦しみを憐れみ、心を痛めることをいう。詩人としての雨情の心を掻き立てる何かがあったのだろう。赤い靴に詠い込んだ女の子にはきっとあわれみを感じていたのだろう。もしかしたらこの「女の児(こ)」というのは、きみちゃんのことかもしれない。そしてきみちゃんの件とはまたべつに、一方でその人その人のもつさまざまな「赤い靴の女の子」や「赤い靴」も存在している。

「赤い靴の女の子の像」は今日も各地に建ち、「赤い靴」は今日も歌い継がれている。時をこえ、人のもつ想いを継承してきたそれらには、それぞれが抱いたり思い描く赤い靴の女の子がいる。そしてそのうちの一人が、きみちゃんであるとも言えるように思う。心の中で長い年月をかけ、はぐくまれてきた女の子はときにはそれぞれにとっての誰ちゃんであり、3歳や6歳といったかわいい盛りの自分の娘が心の中に思い描かれたり、口ずさんでいるうちにいつしかきみちゃんや誰ちゃんになったり、またあるときは自分自身であることすらあるのだろう。人の心や記憶はときに自分でも気づかぬうちに変化をしたり、あるいははぐくまれていく。心理学の用語に「記憶の変容」という言葉があるが、人の心や記憶の不思議を具象化したものが「きみちゃん像」であるともいえるかもしれない。私はそういう意味では、真実は謎のままでもいいのではないかと思っている。たったひとつの歌が創りだす、おどろくほど多くの邂逅。それぞれの心のうた。かけがえのないものを教えてくれた「赤い靴」に込められた雨情の想いこそが、真実のうたの心なのだろう。

雨情のそのような秘めたるメッセージにも後押しされるような形で当時を追体験するように辿るなか、差別や戦争を起因とする悲惨な時代の流れに翻弄されながら生きざるを得なかったあらゆる人物たちの凄絶な歩み、その姿が次々に瞼にうかんでは消えていった。激動の時代の狭間にあって懸命に生きた人びと。時代に翻弄され、悲惨な状況にあっても各々懸命に命を燃やす姿。とりわけ、学生時代の修学旅行という一時の形ではあっても現在の留寿都で雪と極寒の猛威をたとえその片鱗でも肌で知っていた私は、今回の執筆にあたり当時の開拓の過酷さを辿りながら目頭を熱くした。各文献や資料に目を通しては、当時のありようがまざまざと書かれた文面を追う目が場面場面で涙で潤んだ。260年あまりもつづいた江戸の武士時代が終わり、年号も明治となった新しい時代の幕開けに、大きな夢をかけた人びとの群れ。しかし希望に燃える彼らを待ち受けていたのは、魔物のような原始林の茂る荒れた原野の、あまりにも過酷すぎる現実。唸る猛吹雪に埋もれる開拓小屋。人命を次々に奪う力があるほどの極寒、大自然の猛威。歯を食いしばって木を切り倒し、鍬をふり上げて畑をつくる人びと。明日を夢見るものの、底をつく食べものと凍てつく寒さに人びとは次々と倒れていった。わずか2年あまりでの開拓村解散。果てしない大地での、命がけの生きる闘い。結末は悲しくとも、きみちゃんはきみちゃんなりにその小さないのちを燃やし、懸命に生き抜いた生涯だっただろう。

悲話であると同時に秘話でもあるきみちゃんの足跡は、名も無き人びとの歴史の一ページに過ぎないかもしれない。しかしながら凄絶な人間ドラマには違いない。この世に確かに生を授かって存在し、激動の歴史の狭間で数奇の運命を辿りながらも生涯娘の幸せを案じながら男たちと同じように過酷な力仕事も厭わず開拓に挑んだ母の心や、異論がどうあれきみちゃんという女の子がいたことは確かだ。かよは過酷な開墾仕事に打ち込むことで、人手に渡してしまった娘きみちゃんへの想いを断ち切ろうとしたのかもしれない。あるいはきみちゃんへの贖罪を果たそうとしてか。心苛まれる日々、何度となくあったであろう眠れぬ夜。夢ばかりか、かまどの煙の中にさえきみちゃんの幻影を見たというほどの強い想い。小屋の外で故郷不二見村で見たときと同じように美しい星空を見ては、想いは再びきみちゃんの許へ—。

そして雨情はその少女を「赤い靴」に詠い込んだ。明治から大正、昭和から平成、そして令和へと、時は矢のように流れてゆく。歌のモデルとなった女の子は、童謡を歌われるたび、今日もたくさんの人びとに思い起こされている。それぞれの心に生きる、「赤い靴」や「赤い靴の女の子」ものがたり。麻布の山本さんや、今もなおきみちゃん像ゆかりの方々の間できみちゃんが生きているように、「赤い靴」は時をこえ、はるか海をこえ、多くの人たちの心にやさしく沁みこみ、それぞれの心のうたになり、それぞれの人たちの心のなかで、赤い靴をはいた女の子は生きつづけていく。麻布十番がきみちゃんの生きた証しを刻みつづけ、その永いいのちを保っているように、それはきっと一つの愛の記憶になっていくに違いない。

終わりのない、愛の邂逅物語―あなたにとっての「赤い靴の女の子」は、誰ですか?

参考文献・サイト

麻布十番未知案内
北海道留寿都村
『広報るすつ』留寿都村役場 
『赤い靴はいてた女の子』菊地 寛 著(現代評論社)
『名作童謡 野口雨情100選』上田 信道 編集(春陽堂)

記事執筆にあたり丁寧にご対応頂いた青山霊園管理事務所の方々、申請後旧い書籍を閉架書庫から取ってきていただいたり埋もれた赤い靴関連書籍を見つけてくださった図書館スタッフの方々、麻布十番の山本仁壽様へのお礼と併せ、各文献・資料は私自身に「赤い靴の女の子」とそこにあるものがたりをどう咀嚼したか検証する余地や機会をゆたかに与えてくれた。こうした人びととのふれあいに、人の世にある情のあたたかさをいま一度感じ支えられたからこそ、私も各関連地を追い、当記事を仕上げることができたように思います。記して厚く感謝いたします。

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