浮世絵の美人画といえば、多くの人が喜多川歌麿の名前を思い浮かべるだろう。
2025年の大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』の主人公蔦屋重三郎に才能を見出された一人であり、既に染谷将太がキャスティングされ、物語の中で重要な位置を占めていくことが予想される。
美人画の作例として本で紹介されるのも、多くが<ビードロを吹く女>をはじめとする歌麿の作品であり、彼の名は今や「美人画」の代名詞と言って良い。
だが、彼と同時代に活躍した「ライバル」がいたことをご存知だろうか。
彼の名は鳥文斎栄之。もともとは旗本の生まれで、将軍にも仕えていたこともある、浮世絵師たちの中でも異色の経歴の持ち主である。
浮世絵が華やかな展開を迎えた天明~寛政期(1781~1801)に、彼の作品は歌麿と並んで人気を集めたものの、明治時代にはその多くが国外に流出してしまったために、これまで展覧会を開くことができなかった。
が、そんな彼を主人公にした国内初の個展が、1月6日から千葉市美術館でスタートした。
この機会に寄せ、鳥文斎栄之という絵師について、紹介していきたい。
①将軍の傍仕えから、浮世絵の世界へ
鳥文斎栄之は、1756年、禄高500家の旗本・細田家に長男として生まれた。細田家は祖父が勘定奉行を務めた名門(エリート)で、栄之自身も17歳で家督を継ぐと、22歳で御小納戸役の一人として、10代将軍・家治の傍近くで仕えるようになる。
家治が絵を描く事を趣味としていたため、絵の具調達などを担当する「絵具方」を務めていた。まさにエリート・コースを歩んでいたのだが、病気のため約3年で役目から離れたとされる。
その後、1786年に家治が逝去、老中・田沼意次が失脚するなど、時代が変わりつつあることを見てとった栄之は、第二の人生の場として浮世絵の世界に本格的に入っていく。
絵についての知識や経験があるとはいえ、町人たちが中心の浮世絵の世界は、栄之がこれまで生きてきた武家社会とはまさに180°異なる。やりにくいと感じる場面もあったのではないか、とそんな想像もさせられる。
しかし、予想外の展開が待っていた。
版元(プロデューサー)は、「旗本出身」という栄之の経歴を、他の絵師にはない独自の「個性」、セールス・ポイントになりうると考えたのである。
その期待度の高さを物語るのが、この〈貴婦人の船遊び〉である。
版元(プロデューサー)、絵師(下絵)、彫師(版木)、摺師(印刷)と、複数の人間の分業から成る浮世絵において、主題や画面サイズなどは、統括役の版元によって決められ、絵師はそれに従う。
そして、デビューから間もない時期の絵師に版元から割り振られる仕事は、ほとんどが細判(約15.5×33cm)の役者絵だった。
しかし、栄之は、なんとデビュー2~3年目にして、細判の約2倍の大判(約39×27cm)を、それも数枚を横に並べた「続物」として描くことを許されたのである。
彼は、この破格の大画面いっぱいに、大きな屋形船と、舟遊びに興じる9人の女性たちを描き出した。
彼女たちはいずれも上流階級に属し、その華やかな打掛や品のある佇まいは、見る者の目を惹き付けてやまない。
このような「舟遊びをする上品な女性群像」のテーマは、他にも多くのヴァリエーション作品が今回の展覧会にも出品されており、人気の高さがうかがえる。
町人たちにとっては、「雲の上」に等しい上流社会(セレブリティ)の世界を垣間見ることのできる「ゴシップ誌」のようなものだっただろう。
裕福な階級にとっても、自分たちに馴染み深い世界を嘘や粉飾なく描き出した栄之の作品が、好ましく映ったのは想像に難くない。
②歌麿vs 栄之
それにしても、版元はなぜここまで新人・栄之の売り込みに力を注いだのだろうか。
その背景には、当時の「美人画」ジャンルをめぐる状況が絡んでいた。
栄之がデビューする前の天明期(1780〜88年)、「美人画」のトップに立っていたのは鳥居清長だった。
彼は、もともとは役者絵を専門とする鳥居派に属していたが、やがて堂々たる八頭身の美人画スタイルを独自に作り出した。特に大判を2、3枚並べた大画面を用い、現実的な背景に女性群像を配した「続物」作品は美人風俗画と呼ばれ、一世を風靡した。
しかし、1787年に鳥居派四代目の当主となったのを機に、彼は鳥居派の家業である役者の看板絵に注力し、美人画からは手を引いてしまう。
困ったのは版元たちである。時代を牽引するトップを欠いたままの状態はよろしくない。彼に代わる新しい才能を見つけ出す必要があった。
そんな状況の中で台頭したのが、歌麿、そして栄之であり、そのバックには、それぞれ別の版元がいた。
歌麿を見いだしたのは、蔦屋重三郎。最初は、吉原の細見屋(遊郭のガイドブック)を売っていたが、やがて日本橋に店を出し、本格的な出版業に乗りだしていく。
業界の中では新参だったが、そのかわり、既存のルールに囚われない自由な発想力があり、新たな才能を次々と発掘する能力にも恵まれていた。歌麿も、彼に見いだされた一人だった。
歌麿と蔦屋のタッグは、従来は全身像で描かれるのが通例だった「美人画」に、上半身をクローズアップで描き出す役者絵の技法「大首絵」を導入し、全く新しいスタイルの絵を作り出す。
例えば、こちらは、当時「美人」と評判だった三人の女性を一つの画面に描いた〈寛政三美人〉では、三人の目や鼻は少しずつ異なる形で描かれ、それぞれ誰であるかは服装や団扇の家紋によって特定することができる。
また、髪型や小道具、仕草によって、モデルの年齢の描きわけや性格・内面の表現も可能になり、「美人画」の可能性は、歌麿によって大きく広げられたと言えよう。
一方の栄之が組んだのは、老舗版元の西村屋与八だった。
歌麿らの新奇なスタイルに対し、彼らは馴染み深いスタイルをベースにしながらも、そこに工夫(アレンジ)を加えることで、購買者の心を掴もうとした。
こちらの<松竹梅三美人>に描かれた3人のうち難波屋きた(中央)と、高嶋ひさ(右)は、上の<寛政三美人>にも登場するが、クローズアップで描いた歌麿に対し、栄之はすらりとした立ち姿で彼女たちを表現している。
歌麿の「濃艶」な大首絵に対し、このような全身立像や全身坐像に、表情の伸びやかさや、気品のある佇まいなどを加味した栄之の女性像は、「清麗」と言い表せよう。
このように、絵師や作品単体でなく、版元との関係や戦略など、背景要素に着目するのも、「浮世絵」にまた一つの見方を提供してくれる。
③肉筆画へ
寛政の改革による出版規制が厳しさを増す中、1798年、栄之は自分のあり方を変える。
これまでの作品は、版画の下絵が主だったが、一点ものの肉筆画へと活動の場を移していく。
繊細な線描、上品で匂いたつような女性像など、これまで培った経験は、この新たなフィールドにおいても遺憾なく発揮され、以後亡くなるまでの三十年間、彼は優れた作品を生み出し続ける。
「エリートの旗本家出身」という彼自身の出自もあってか、彼の作品は、特に上流階級や知識人に愛された。
1800年頃には、隅田川の図を描いた作品が、京の後桜町上皇の御文庫に納められたというエピソードも伝わっている。
今回の展覧会には掛軸から図巻、屏風まで様々な種類の栄之の肉筆画作品が約20点集められている。中でも注目したいのが、この〈和漢美人競艶図屏風〉である。
ここでは、王昭君や楊貴妃ら中国史に登場する有名な美女たち、そして小野小町ら日本の美女たちが三人ずつ、交互になるように組み合わせ、並べられている。
古くから漢詩や絵のテーマとして取り上げられてきた中国の王昭君(右から二番目)が伝統に従って琵琶を持った姿で現されているのをはじめ、紫式部(左から二番目)の前には『源氏物語』と思しき巻物を載せた文机が置かれるなど、各々誰を描いているのかがわかるよう工夫が凝らされている。
また、中国と日本の衣装の違い、着物の文様や小道具なども緻密に描き込まれ、栄之の技量の高さと優れた色彩感覚、歴史や文学に対する造詣の深さをうかがわせる。
晩年期に描かれた、彼の集大成の一つとも言うべき作品である。
今回の展覧会には、国内の個人蔵の作品に加え、ボストン美術館や大英博物館から帰国した作品も集められている。
それらを通し、私たちは江戸時代、そして明治時代の外国人たちを惹きつけた美人画の名手・鳥文斎栄之の生んだ表現世界だけではなく、浮世絵の世界そのものの奥深さにも触れることができる。
今年是非見ておきたい展覧会の一つとして数えられよう。
展覧会情報
展覧会名 | サムライ、浮世絵師になる! 鳥文斎栄之展 |
会期 | 2024年1月6日(土)~3月3日(日) |
会場 | 千葉市美術館(千葉市中央区中央3-10-8) |
休館日 | 2月5日、13日は休室。第1月曜日は全館休館 |
ホームページ | https://www.ccma-net.jp/exhibitions/special/24-1-6-3-3/ |