PartⅠの最後社交室をあとにしばし順路を進むと、展示室へつづいていく。氷川丸のもっとも華やかだったシアトル航路時代の軌跡をたどり、実物資料からも当時の様子やエピソードなどを知ることができるゾーンだ。
PartⅠで触れたとおり、氷川丸が誕生した昭和5年(1930年)ごろは、豪華客船が日本で続々とつくられた時代だった。海外へ行くには船が唯一の交通手段だった当時、外国と行き来する船はその国の文化を世界に示す文化使節の役割ももっていた。このため、各国は最高の技術と芸術の粋をあつめて客船を建造した。氷川丸もその一翼を担い、デビューした。
展示室には氷川丸の希望に満ちた航海のはじまりやその船旅をささえる乗組員たちの細やかな働き、船内で使われたアナログの道具なども展示されている。
「軍艦氷川」とも呼ばれたワケ
展示室には氷川丸初代船長 秋吉七郎(あきよし しちろう)の写真も展示されている。氷川丸の特徴のひとつに、船員クルー間で「軍艦氷川」と呼ばれるほど規律が大変厳しかったことが挙げられる。その礎を築いた初代船長だ。
秋吉船長は仕事のみならず、規律や礼儀作法にも厳しいことで有名であった。船員の頭がボサボサであろうものなら「坊主にするぞ」。制服の麻の真っ白なズボンがしわになっているのが見つかろうものなら船長室に呼び出され、説教を食らうなど厳しかったようだ。船長の厳しい指導は鉛筆の置き方ひとつにまで及んだという。まさに軍艦氷川・・・!
軍艦並みの規律の厳しさから「軍艦氷川」と呼ばれていたとはなかなかおもしろいエピソードだが、一方で厳しいばかりではなかった。汚れた靴下を履いていた船員を叱ったときは、そっと新しい靴下を届けるなど、やさしい心配りも忘れない人だったという。また、お付きのボーイさんがいるにもかかわらず下着類を全部自分自身で洗濯するなど自分自身に対しても厳しかったと伝えられている。
こうして秋吉船長により、氷川丸の気風の礎が築かれていった。厳しくもあたたかいお人だったのだろう。船の安全航行に船客へのサービス。氷川丸級の大型豪華客船を運航する背後では乗組員たちが乗客に見えないところであらゆるはたらきをし、船をささえた。そしてその乗組員たちを指示し、総指揮者としてまとめ上げる船長のはたらきは相当な重責だっただろう。そしてこのようなお人だったからこそ、氷川丸の規律や気風が伝統として受け継がれていったのだろう。氷川丸を語る上で欠かせない重要人物の一人には違いない。
チャップリン争奪戦~日本の天ぷら、喜劇王を射止める!
氷川丸にまつわる人びとは多い中、イギリスの喜劇王チャールズ・チャップリンもそのうちの一人であった。いつの時代も、人気スターの獲得は大きな宣伝効果になる。氷川丸を彩る船客の一人として、日本でも大人気であったチャップリン争奪戦が複数の船の間で繰り広げられたエピソードをご存じだろうか。
チャップリンぜひうちの船に来てくれ合戦が勃発する中、チャップリン本人は氷川丸への乗船を決定。チャップリンを射止めたのは何と天ぷらであった!映画『街の灯』完成後、来日していたチャップリンが氷川丸に乗ったのは昭和7年(1932年)6月のことだった。来日当時、京都、東京をおとずれて各名所を歩き、歌舞伎鑑賞なども楽しんだチャップリン。東京・日本橋の料理店「花長」で堪能したお座敷天ぷらが大層気に入ったという話は有名である。
これを知った日本郵船は氷川丸の料理人を「花長」で勉強させた。日本郵船のみならず、アメリカのダラー汽船やカナダの太平洋汽船などチャップリンの乗船を切望する複数の船会社が名乗りを上げ、チャップリン争奪戦が繰り広げられた結果、氷川丸がチャップリンに選ばれた理由のひとつにはこの天ぷらの存在があったようだ。料理人と鍋をのせ、台座ごと動いて登場する花長特製の揚げ台を前に、チャップリンは航海中揚げたての天ぷらを毎日堪能したと伝えられている。
天ぷらともども歌舞伎や文楽などの日本文化にも魅せられたチャップリンは、戦前戦後を通じ4回も来日している。その後の来日でも日本郵船の船に乗っているチャップリン。同社の船を選んだ理由について、おいしい食事、清潔さ、船員たちのもてなしの心、すぐれた技量、静かで家庭的な雰囲気があるからと語っている。
とりわけ海老天が好きだったというチャップリン。在日中何度も天ぷらを食べ、海老天を一度に30匹以上平らげたことから新聞では「天ぷら男」とあだ名されたほどであった。30匹以上となると本人も相当気に入ったのだろう、凄い食いっぷりはもはや喜劇王ならぬ天ぷら王かもしれない。「花長」での記録は現在も破られていないという。マリリン・モンローはお熱いのがお好き、喜劇王は天ぷらがお好きなのであった。
なお、チャップリンの天ぷら好きは有名だが、カレーライスにも目がなかったようだ。天ぷらも然ることながら、カレーライスもまた喜劇王の胃袋をつかみ、魅了したのである。
運賃にひっくり返る。横浜~シアトル間片道500円。1000円あれば家が建った!
希望に満ちた船旅のはじまりはじまり時代、神戸を出た氷川丸は、国内各港で船客や荷物をのせ、横浜港に入港した。横浜港からはシアトルへ向け、はるばる太平洋をわたる13日間の航海がはじまったのである。
たまげるのはその運賃だ。氷川丸竣工当時、横浜港~シアトルまでの片道運賃は一等で250ドル(当時の日本円で約500円)。昭和5年(1930年)の日本郵船初任給が70円だった当時は、1000円あれば家が建った時代だ。1000円あれば家が建つのだ、家ね。家・・・いえーい。・・・って、笑えない値段ではないか・・・!高いをはるかにぶっちぎりもはやひっくり返るレベルである。乗船できる客がいかにお金持ちだったかがうかがえる。氷川丸も荒海の航路でひっくり返ったが運賃にもひっくり返るわけだ。
氷川丸の客室は、「一等」、「ツーリストクラス(二等にあたる)」、「三等」に分かれていた。運賃の差はサービスや食事、施設の違いなどに表れた。三等とはいえ当時の物価からすれば決して安くはないが、一等と三等では同じ船でも過ごし方が全然違ったという。これはPartⅠでも触れた一等食堂室にもつながるが、とりわけ一等の場合、それにふさわしい食事やサービスが提供された。ディナーには連日メインディッシュからデザートまで豪華メニューがテーブルを飾り、味もピカイチ。その上でPartⅠでもお伝えした一等船客専用の児童室に子どもを預け、子どもたちの食事時間をディナーとずらして設けることで、一等船客はゆったりと食事を堪能できたのだ。
パソコンにスマホ。今や飛行機ばかりか、ITを駆使して誰もが自由に旅行プランを組み立てられる時代になった。氷川丸が就航した昭和5年(1930年)当時はそれどころではなく、海外への渡航は簡単なことではなかった。当時、アメリカに入国できるのは「非移民」と「非歩合移民」だけであり、背景には大正13年(1924年)に制定された排日移民法により日本からの移民そのものをアメリカに禁じられていたように、国同士の問題が横たわっていた。その上で、さまざまなハードルをどうにかクリアできたとしても、庶民にはこんどは運賃が重くのしかかってくるという切実な問題があった。何しろ家の半分ぐらいの運賃だ。
PartⅠで優雅な社交室でのダンスパーティが一等船客だけが堪能できる特権イベントだったことについて触れたように、乗船費用によるヒエラルキーは厳然としたものがあった。一等船客としての旅はごく限られた人びとだけが楽しむことのできる、特別な旅だったということである。世界に名だたるセレブたちが船旅を楽しんだのも納得だ。それにしても家の半分ぐらいもする運賃とは、たまげる。
一等船客の船旅は、「一等船客のくつろぎの一日」のとおり朝から優雅なモーニングコーヒーにはじまる。一日のスタートからして文字通り「くつろぎの」一日だ。
起き抜けにまずモーニングコーヒー。その後1時間半も散歩をしてそれから朝食とは、なんという優雅さ。そうして始まる一日の日中はそれぞれプライベートな時間を満喫し、夜は社交室で華やかなダンスパーティと、終日優雅三昧だったことがうかがえる。そしてグラフの後ろにあるトランク。トランクに貼られているラベルの数は多いほど旅慣れていると見なされ、外国のホテルなどでとくに優待されたという。
展示室ではそれ以外にもこの船の華やかな部分を多々見ることができる。日々船客を退屈させないためのあらゆる企画があり、目まぐるしく過ぎていったであろう航海生活。この展示室でも見学者は「タイタニックそのものだ」。氷川丸の一日は食事の時間を中心に、規則正しく過ぎていったという。
上等なおもてなしを満喫する一等船客の船旅。日本から太平洋横断には船が唯一の交通手段であった氷川丸就航当時、無事にアメリカに到着することが船の重要な役割だったが、およそ2週間近くもの間船内だけで過ごす船客への心配りも大事な役割であった。船からの通知もそのひとつである。
シアトルまでの長い航海中、船客をいかに楽しませるかは乗組員の腕の見せどころであった。追って喫煙室にも触れるが、デッキでのビリヤードにビンゴ大会、映画上映、乗組員の自作自演ショータイムに運動会など、船客に暇を感じさせない多彩なレクリエーションプログラムが用意されていた。食においてはすき焼きパーティも行われ、プロムナードデッキに畳を敷いて催されたという。
このような船のおたのしみプログラムを伝える船からの「NOTICE」、そしてこのプログラム内容を考えるのも乗組員たちの仕事であった。それにしても達筆な文字。私の字など恥ずかしくなってしまうほど流れるような筆運びに端正な秩序。余白バランスなども含めた麗しい文字ひとつからも、船員の知性を垣間見る。
当然ながら一等と三等では食事内容などにも大きく差があった。PartⅠで触れた一等船客の豪華な食事に対し、三等客の食事は日ごろ一般家庭でおなじみの焼き魚など、一汁二、三菜といった内容だったようだ。
かたや一等船客恒例のすき焼きパーティは、一航海に一度は催された。そしてこれまた日本食ならではのよさを発揮したようである。知らない船客同士が食卓を囲んだときのよそよそしさを見事に打ち破るパワーもあり、外国人船客にはフジヤマの国の民族的な雰囲気や芳ばしい味ともども、斬新な魅力があったようだ。(凄いぞすき焼き!)
また三等客は一等エリアに勝手に足を踏み入れることは許されず、一等デッキを見学したければ事務室に申し込みをしなければならず、見学の際は係員の案内も必要だったという。
一等と三等間でこうした格差が大きくある中、とりわけ一等船客は上記のレクリエーションなどで充実の船旅時間を過ごすことができた。日常生活から離れ、見渡すかぎりの大海原と船が水面に残す一筋の航跡を眺めてのんびり過ごすことも船旅の醍醐味だったという。ずざざざざざざざ~・・・(船が水面に白い水の尾をのこす音)。
ここで着眼したいのは船旅をささえる乗組員たちのはたらきである。戦前およそ147名の乗組員が乗船していた氷川丸。船の安全航行と船客へのサービスのため、乗組員たちは24時間体制で働いていた。中でも船の現在位置確認作業は運航上欠かせない、大切な仕事であった。レーダーや衛生システムなどない戦前の航海では、天体観測やこうした器具などで船位を確認していた。目印のない海上で夜でも嵐でも船位測定をするには、日ごろの訓練と経験が欠かせなかったという。
明治日本シルクロード
病院船であったほか、荷物運搬の役割も担っていた氷川丸。貨客船として生糸などの荷物も運んだ。日本の近代化をなしえたこの事実はとてつもなく大きな貢献だ。日本からの積荷は生糸や陶器、お茶、雑貨類からカニの缶詰、綿製品や豆類、除虫菊や骨董品などがあった。当時の日本国政府の外貨獲得の切り札が生糸の輸出にあったため、製糸工場が爆発的に増えた。東北や現在の群馬、長野など全国各地で生産していた生糸を横浜で集約し、船ではるかアメリカへ向けて輸出されていた当時の世相を、ここでも垣間見ることができる。当時高価であった生糸は厳重に扱われ、船内では専用の「SILK ROOM」と呼ばれる部屋で管理がされていた。このシルクルームは一般公開されていない。展示室には生糸関連の品々も展示されており、こちらが梱包された生糸である。
明治日本にとって救世主でもあった生糸。明治政府にとって外貨の稼げる生糸は願ってもない切り札であり、こうした第一次産品の輸出が頼みの綱であった。この生糸輸出があってこそ、その外貨を元手に日本の近代化をなしとげたことを思うと、このシルクルームは現代日本の船の中で唯一生日本の糸生産地と欧米をむすぶ、明治日本のシルクロードともいえる。そしてそれをむすびつける地点が横浜であった。
生糸がいかに厳重に扱われてきたか展示室の品々が示すように、氷川丸をはじめとする国内外の商船がシルクルームでそうして厳重に管理され、最新の注意を払って積み込まれ、無事安全にはるばる運ばれたからこそ今にいたる日本の近代化がなしえた事実の大きさを思うと、貴重な産業遺産としてぜひシルクルームも一般公開されてほしいと願ってやまない。はるかシルクロード。そしてその役割を無事になしとげ、部屋自体が生きた歴史の証人ともいえるシルクルーム。現存の日本船の中でこの歴史的遺産を遺すのは氷川丸だけである。
シルクルームは現在、船のブリッジ真下にあたる一般非公開の貨物艙デッキに、ひっそりと眠っている。
「これじゃあ商品価値がない!」鮭の上に絶対ニシンを置くなルール
シアトルからの復路では小麦や小麦粉、銅や鉛、自動車部品、木材やパルプ、牛皮などが積まれた。多種多様であった運搬貨物。それだけに、これまた大変だった臭気問題など乗客船の不評をかうこともあり、ここにも当時の世相を反映するエピソードがある。
氷川丸処女航海の復路で生乾きの牛皮を積んだ折、目張りをした貨物室を用意しても乾燥不十分のため、なんともいえない動物の腐敗臭が三等船室に流れ込んだことがあった。生きものの腐敗臭というものはなんとも強烈で、鼻腔を突くような独特の強い臭いを放つ。それが三等船室に流れ込んだ際、船客ばかりか乗組員の間でも怒りの声が上がったこともあった。しかしながら当時牛皮は軍用品に使われるものだったため、氷川丸は運搬を余儀なくされた。このほか氷川丸は毛皮用にウサギを生きたまま積み込んだり、小象や馬も乗せたことがあったと伝えられており、航海中の飼育方法が「甲板部記録」に記録されている。
乗組員たちは積荷にも気を配り、積荷の扱い方にはそれぞれ細かいルールがあった。塩ものの鮭を運んだときはその上にニシンを積み重ねたため、ニシンの匂いが鮭にしみ込み、荷主から「これじゃあ商品価値がない!」と怒られたエピソードも遺されている。以来、「鮭の上に絶対ニシンを置かないこと」が決まったという。
シアトル市民に「ハイカワマル」で親しまれる
船旅の終わりには、氷川丸では船長と一級航海士、機関長といった高級士官たちが正装をして船客と記念撮影も行い、写真配布サービスも行っていた。これは乗船の記念として喜ばれていたという。またシアトルに到着する前夜はディナーが催された。その名も「SAYONARA DINNER」ということで、船客や乗組員たちと楽しかった旅の思い出を語りながら別れを惜しんだ様子も伝えられている。いよいよ終わる船旅。こうしてようやく、はるばるシアトルに上陸するわけである。
シアトル港が近づくと、とんがり帽子のスミス・タワー(写真右上)が氷川丸を歓迎。アメリカ西海岸有数の都市だが、その市名はこの地の先住民インディアン部族であるスクアミシュ族の部族長シアトルの名に因んでいる。人口6,000人の小さな港町だったが、明治25年(1892年)グレート・ノーザン鉄道敷設、明治29年(1896年)日本郵船のシアトル航路開設により、極東とニューヨークをむすぶ中継点として大きく成長した。部族がこの地を離れる際、シアトル市長の語った「シアトル繫栄の父はグレートノーザン鉄道、母は日本郵船」という言葉が残っている。
氷川丸が初めてシアトルに入港した日、入港を待っていた大勢の人びとから大歓声が上がり、消防車が何本ものホースで高く放水して歓迎した。行き交う船、停泊中の各国の船も一斉に汽笛を鳴らし、港に響き渡った。空には花火が続々と打ち上げられ、空中で炸裂するとパラシュートのついたアメリカや日本の国旗、日本郵船の社旗が舞い降りた。
入港大歓迎スペシャルである。その日のシアトルのラジオで氷川丸歓迎の放送がさかんに流れたが、アナウンサーが「HIKAWAMARU」をハイカワマルと発音したため、シアトル市民には「ハイカワマル」と親しまれた。「ハイカワマル」の愛称はこのときにはじまったものである。
グレートノーザン鉄道は北アメリカ大陸横断鉄道として敷設された。氷川丸がシアトルに入港したころはエンパイア・ビルダーと呼ばれた代表的な大陸横断列車が走り、氷川丸の船客はこの客車に乗って大陸の旅に出たのであった。今でこそ飛行機でひとっ飛びの海外旅行。そう思うとやはり当時の船旅が限られた人たちだけの特別なものだったことにしみじみ。展示室はそんなしみじみゾーンかもしれない。
そして出港といい、入港といい、とにもかくも氷川丸盛大メモリアルデーだったことがひしひしと伝わってくる。出るも入るも港内に停泊中の船がいっせいに祝いの汽笛を鳴らしたとなると、さぞかし迫力もあっただろう。想像しただけでもブオーすぎる。
一等喫煙室
展示室を抜けるといったん外へ出る。しばし外の気持ちのいい空気を吸いこんだら順路にしたがって、お次は一等喫煙室へ。PartⅠでご案内した船内につづき、こちらも華美すぎないすっきりした美しさが光る。社交室に比べ落ち着いた雰囲気だが、こちらも時を越えてなお美しいといったところか。ほの暗さが引きつづきいい味を出しているところもポイントだ。
VIPルームに「うわぁ~。。。」ここにもタイタニック。
つづいては一等客室と一等特別室。第二次世界大戦前、「動くホテル」とも言われた氷川丸だが、その言葉通りの豪華な客室、VIPルームである。タイタニックここにもありの客室であり、レトロでコンパクトなまとまりを見せている。
一等客室のベッドはアメリカ製で、スプリングのついた寝心地のいいもの、換気や空調も船客が自由に調節ができる、当時としては最新式の設備が導入されていた。使用の際、蛇口をひねれば水もお湯もすぐに出てきたといい、まさに当時の最先端技術の結晶である。優雅な船旅だったことだろう。見ているだけで今夜の夢は氷川丸ではるばる旅へ出航決定である。
そして、ベッドの上にある毛布にも注目していただきたい。上の一等客室の写真においてはぐるぐる巻きになっているが、これは「飾り毛布」といい、サービス担当の給仕が折ったもの。当時客室のベッドにはこうした飾り毛布が置かれ、細部にまで及ぶおもてなしのひとつとして長い船旅の乗客に喜ばれた。とりわけ外国人船客にはとくに喜ばれたようだ。
飾り毛布はこのあとにもつづく船室でもいくつか確認できるが、なんと何十種類もの折り方がある。そしてその技術は代々給仕から給仕へ受け継がれていった。中でも毛布を花や植物に見立てて折りたたまれたものは「花毛布」と呼ばれた。戦後の昭和30年代ごろまでは国内航路の客船やフェリーの上級船室などでも見られたが、効率化が進展した現在ではこの折り方を知る船員の数そのものが減ったためか、飾り毛布を見られる船が少なくなったようである。
船客を長旅で退屈させないよう、工夫を凝らして折りたたまれた飾り毛布。このほかにも見られるバリエーションに富んだ造形は、実際に氷川丸をおとずれてのお楽しみに!バラの花や日の出の形など、各客室でクルーの技が光っている。
一等客室でも十分優雅だが、一等特別室ともなるとゴージャス度もさらにグレードアップ。デザインもクラシックで重厚感があり、窓にはステンドグラス。英語でDeluxe cabinとあるように、文字通りデラックスである。
数々のVIPたちを乗せてきた氷川丸。一等特別室は秩父宮両殿下やチャップリンなどをはじめ、各国の貴賓や著名人たちが利用したスイートルームだ。デザインを三代目 川島 甚兵衛(かわしま じんべえ)が手掛けたとされるこの部屋は、テーブルと椅子をのぞき、壁紙などに竣工当時そのままの姿をとどめている。
さしずめ、海にうかぶクラシックホテルのような趣の船室。一等客室、特別室ともにドアは開かないようになっているが、それでも伝わってくる重厚感。とりわけ一等特別室はガラス越しでも昭和初期の匂いぷんぷんである。ゴージャスな船室を目に、見学者は皆おどろきを隠せない。はっと息をのむように、「うわぁー・・・」「タイタニックだタイタニック」。やはりこの船では終始「タイタニックだ」が連呼される。氷川丸のステンドグラスは工芸家 小川 三知(おがわ さんち)の原案をもとに天笠鐡五郎が手掛けたといい、一等特別室に遺るステンドグラスをひと目見ようと氷川丸に駆けつける人さえいるほどだ。かたや一等喫煙室の片すみにも光る帆船。氷川丸はヨコハマの知る人ぞ知るステンドグラススポットともいえるだろう。
まだまだ見どころだらけの船内。そして300円タイタニックはまだまだ歩く!船内は広〜いのである。引きつづき、お楽しみに!