東京・新宿の中村屋サロン美術館では、「中村屋サロン」の中心人物のひとりで画家の中村彝(つね)を紹介する「開館10周年記念展 中村屋の中村彝」展が2024年11月4日(月)まで開催されています。
明治時代に創業したパン屋の中村屋には、明治末から昭和初期にかけて多くの芸術家・文化人たちが集い、「中村屋サロン」と呼ばれるようになりました。「中村屋サロン」は、日本近代美術史に位置づけられています。西洋の作家に学び、それぞれの芸術を成し遂げようとする当時の日本の作家たちの息吹が感じられる場所です。
明治時代に創業、カレーで有名な中村屋
東京・新宿の「中村屋」と聞くと、カレーライスや中華まんじゅう、月餅を思い浮かべる人も多いのではないでしょうか。
中村屋は1901(明治34)年に東京・本郷で創業し、09年に現在の新宿に本店を移しました。新宿は江戸時代には甲州街道の宿場町、1885(明治18)年には日本鉄道「新宿駅」が開業しました。創業者の相馬愛蔵は、将来の発展を見越して新宿に店を構えたのです。
それから幾度となく建て替えが行われ、およそ100年を経た2014年に「新宿中村屋ビル」をリニューアルし、レストランなど3店舗、新たに「中村屋サロン美術館」が開館しました。
中村彝は37年の短い生涯にもかかわらず、中村屋サロンの中心となり、日本近代美術史に大きな足跡を残しました。この展覧会では、彝が20歳から37歳で亡くなるまでの画業を紹介しています。
なお、中村屋の「中村」という名前は、創業時にパン屋を買い取り、店舗・作業所・従業員をそのまま受け継ぎ、繁盛していた店名も引き継いだもので、彝の名字とは関連はありません。
中村屋と荻原守衛の出会い
まず、「中村屋サロン美術館」をご案内しましょう。
中村屋サロンの始まりは、荻原守衛(碌山)がニューヨークとパリの留学から帰ってきた1908年です。帰国後、荻原は新宿にアトリエを構え、近くにあった中村屋に通うようになりました。芸術家仲間の戸張孤雁、高村光太郎らも集まりました。
中村屋の創業者・相馬夫妻は芸術に深い理解を示し、「己の生業を通じて文化・国家(社会)に貢献したい」という気持ちがあり、書家・美術史家の會津八一や女優・松井須磨子、劇作家・秋田雨雀など、多くの芸術家や多彩な人々が集い、いつしか「中村屋サロン」と呼ばれるようになりました。
荻原は愛蔵と同郷・長野県安曇野出身で、少年の頃から相馬家の蔵書を読み、黒光が実家から持参した長尾杢太郎作の油彩画「亀戸風景」を見たことが芸術家を志すきっかけのひとつになりました。「坑夫」はフランス留学中に20数点の彫刻を制作したうちの1点、日本の近代彫刻の記念碑的作品です。
荻原の彫像の反対側の壁には、かつてレストランの壁を飾っていた石膏の浮き彫り、大内青圃「牧女献糜(ぼくにょうけんび)」があり、修行中のお釈迦様に村娘スジャータが乳粥を差し上げる場面が刻まれています。
中村屋サロンの源流・荻原守衛の彫刻
荻原は画家志望でしたが、フランスでオーギュスト・ロダン「考える人」のブロンズ像を見て、彫刻家をめざし、ロダンから直接教えも受けています。「女」は荻原守衛の絶作、日本近代彫刻の最高傑作です。膝立ちで両手を後ろに組み、体をねじりながら伸び上がろうとする不安定なポーズから、緊張感と力強いエネルギーが感じられます。荻原の黒光への想いが秘められているともいわれています。
「女」は1910年にブロンズに鋳造され、第4回文展に出品されました。ブロンズ像は初めに粘土でつくり、石膏でかたどりして、ブロンズに鋳造します。荻原は石膏像を完成させて、20日後に30歳で亡くなり、ブロンズ像を見ることはできませんでした。
1910年に鋳造されたブロンズ像は東京国立近代美術館に、石膏像は東京国立博物館に所蔵されています。
中村屋でボルシチ、ピロシキを売る
青年ワシリー・エロシェンコは盲目のロシア人でエスペラント語の詩人。アジア諸国を放浪し、中村屋に身を寄せていました。そのエロシェンコをモデルにして、彝と親友・鶴田吾郎が左右から肖像画を描きました。黒光は著書『黙移』で、彝は詩人らしく、鶴田は自我的で野生的に描き、どちらも真実、と書いています。
会場には鶴田の「盲目のエロシェンコ」(1920年 株式会社中村屋)が展示されています(撮影は禁止)。彝の作品「エロシェンコ氏の像」は、第2回帝展に出品し、高い評価を得て、東京国立近代美術館に所蔵されています。
相馬夫妻はエロシェンコとの出会いがきっかけとなり、ロシアの民族衣装「ルパシカ」をレストランの制服にし、1927年にはロシア料理のボルシチ、1933年にはピロシキを売り出しました。
第1章 1907年~1911年 太平洋画会で育まれた時代
この展覧会では、中村彝の芸術世界を3つの時代に分けて展示しています。第1章は、本格的に絵画を学び始めたころです。
彝は1887(明治20)年に旧水戸藩士の家に生まれた5人兄弟の末っ子で、17歳までに両親と二人の兄、長姉を亡くし、次姉が嫁ぐと20歳で家族がいなくなりました。彝は兄たちと同じく軍人を志しましたが、結核になり、療養先の千葉で風景画を描くようになりました。白馬会研修所、太平洋画会研究所で絵画を学び、生涯の友となる中原悌二郎や鶴田吾郎らと出会います。
1908~09年の初期の作品、「木立風景」では、暗い木々の中に差し込む光、枝の隙間からこぼれる光も描いています。「中之作」は福島県いわき市の漁村で、彝が結核の転地療養で近くに滞在していました。
展示はありませんが、1909年に千葉県の白浜海岸の風景を描いた「巌(いわお)」(皇居丸の内尚蔵館)が第3回文展に初入選、褒状を受賞し、画家として大きな一歩を踏み出しました。
彝は多くの自画像を描きました。この2点を比べて見ましょう。右は前年に購入したオランダの画家『レンブラント画集』から学んで、背景を暗くして顔に光と影のコントラストを効果的に描いています。左は背景が明るく、荒い筆のタッチがはっきりわかる印象派の影響がうかがえます。
第2章 1911年12月~1915年4月 中村屋裏のアトリエ時代
第2章は、中村彝が中村屋の裏にあるアトリエに引っ越し、滞在した1911年12月から1915年4月までの作品です。アトリエは荻原守衛が友人の画家のために洋館を改装し、彝が引き継ぎました。
彝は相馬家の家族のように暮らし、子どもたちをモデルに描きました。左は大きな瞳が印象的な相馬家の長男で2代目社長の安雄、右は次女の千香、上目遣いに彝を見つめています。この二人は前掲の写真「中村屋サロンのメンバー」で彝を挟んで並んでいます。
彝は特に相馬家の長女俊子の肖像画を多数描きました。こちらを見つめる視線が対峙している画家彝との信頼関係を感じさせます。
1914年、彝が27歳で描いた俊子15歳の肖像画は、東京大正博覧会美術展に出品され、高く評価されました。俊子が正面を見つめる眼差しからは意思の強さが感じられます。しかし、俊子が通う女子聖学院からは撤去を求められました。
俊子は、組んだ手をぐっとこちらに突き出して、斜めに上体を乗り出しているように見え、力強い視線を送っています。視線の先は画家ではなく、遠くにあって何か考えごとをしているようでもあります。背景にある赤と暗い青の市松模様が力強く、人物のエネルギーを押し出しているようにも感じます。第8回文展に出品され、3等賞になりました。
彝は俊子がモデルを務め、献身的な看病を受け、次第に惹かれていきます。相馬夫妻は、芸術であっても娘の裸体の絵を展示するのはスキャンダルと捉え、彝との関係に亀裂が生まれました。彝は病気が進行し、療養のため大島に向かい、中村屋を離れることになりました。
第3章 1915年5月~1916年7月 日暮里・谷中 1916年8月~1924年12月24日 下落合のアトリエ時代
1915年、中村彝は中村屋裏のアトリエから、日暮里(荒川区)、続いて谷中(台東区)に引っ越し、16年1月に相馬夫妻に俊子との結婚を申込み、俊子とも話しましたが、結婚には至りませんでした。
16年8月、下落合(新宿区)にアトリエを建てて移り住み、闘病しながら制作を進めました。画集で学び、フランスの画家ルノワールやセザンヌの表現を作品に取り入れていきました。
右は1914年に生れた相馬家の四女哲子、彝が名付け親になりました。第2章の子どもの肖像画にくらべると明るく、やわらかな色でルノワール風に仕上げています。皿に果物を盛り付けた「静物」もセザンヌを研究した成果があるようです。
「裸婦」 1916年 茨城県近代美術館蔵
「裸婦」は縦が1m近い大きな作品です。ポーズも色彩、艶やか肌には尊敬するルノワールを研究した成果が現れています。この作品は新築のアトリエに移って8日後から取りかかったことから、彝の意欲が感じられます。
1920年にエロシェンコの肖像画を描いたことは前述しました。この頃には相馬夫妻とのわだかまりは解けていました。
1922年、彝の病気を気遣い、慕う仲間が訪問し、彝は1922年に彼らと「金塔社」を結成して、第1回展を開いています。
「老婆像習作」 1924年 茨城県近代美術館蔵
1923年、関東大震災の後、彝は花をモチーフにした静物画を繰り返し描きました。彝が30歳から亡くなるまで身の回りの世話をした岡崎きいの肖像を「老婆像習作」と題して描いています。完成作「老母の像」(公益財団法人徳川ミュージアム)は立つこともつらい病状の彝の執念が縦1mの大作を完成させ、第5回帝展に出品しました。
1924年12月24日、彝はきいに見守られながら、37歳で息を引き取りました。今年2024年は彝が亡くなって100年にあたり、茨城県近代美術館では11月から「100年 中村彝展―アトリエから世界へ」展が開催されます。
彝が1916年から亡くなるまで暮らしたアトリエが、2013年に「新宿区中村彝アトリエ記念館」になりました。記念館は当時の部材も数多く活かして復元され、アトリエは壁の大部分と平屋根の一部もガラス窓にして日光がたっぷりと降り注ぎます。作品に描かれた重要なモチーフでもある家具や調度品(複製)も置かれ、彝がこだわった庭も当時の雰囲気を伝えています。
2024年から「恋と革命のスパイスクッキー」を売る
6月12日は、中村屋が1927年日本で初めて本場インドの「純印度カリー」を発売した「恋と革命のインドカリーの日」です。「純印度カリー」はインド独立運動に身を投じ、中村屋に匿われていたラス・ビハリ・ボースが俊子と結婚し、祖国のカレーを日本にも広めたいと誕生したものです。
2024年6月12日からはスパイスを使用した「恋と革命のスパイスクッキー缶」が販売されました。中村屋のインドカリー用の厳選したスパイスを生かした6種類のクッキーで、ちょっとピリッとした味もあり、香りが豊かです。
ミュージアムグッズには所蔵作品の絵はがき、一筆箋、荻原守衛「女」のレプリカがついた「おんな鉛筆」などがあります。
中村屋の歴史をもっと知りたいかたには、ショップでも販売している石川拓治の著書『新宿 ベル・エポック 芸術と食を生んだ中村屋サロン』(2015年 小学館 税込1980円)をおすすめします。
展覧会情報
美術館のwebサイトには作品を紹介する動画が用意されています。ギャラリートーク動画配信(YouTube) https://www.youtube.com/@user-yp7yz2dc3c
「開館10周年記念展 中村屋の中村彝(前期)」https://www.youtube.com/watch?v=QISJpsjqIsE
「開館10周年記念展 中村屋の中村彝(後期)」https://youtu.be/pgrItRmPihU
展覧会名 | 開館10周年記念展 中村屋の中村彝 |
会期 | 2024年8月28日(水)〜2024年11月4日(月) 前期:8月28日(水)〜9月29日(日) 後期:10月2日(水)~11月4日(月) |
会場 | 中村屋サロン美術館 160-0022 東京都新宿区新宿三丁目26番13号 新宿中村屋ビル3階 |
アクセス | JR新宿駅東口徒歩2分・東京メトロ丸ノ内線新宿駅A6出口直結 |
開館時間 | 10:30~18:00(17:40最終入館) ※但し、10月7日(月)、10月28日(月)は13:00から開館 |
休館日 | 火曜日、9月30日(月) ※但し、開館記念日の10月29日(火)は開館 |
入館料 | 500円 ※高校生以下および障がい者とその同伴者1名は証明書呈示で無料 ※リピート割引有り(会期中に当企画展の半券を提示すると200円割引) |
電話番号 | 03-5362-7508 |
美術館ウェブサイト | https://www.nakamuraya.co.jp/museum/ |
関連する展覧会
没後100年 中村彝展―アトリエから世界へ
2024年11月10日(日)~2025年1月13日(月・祝)
茨城県近代美術館(310-0851 茨城県水戸市千波町東久保666-1)
https://www.modernart.museum.ibk.ed.jp/viewer/info.html?idSubTop=0&id=333