人と水は切り離せない関係にある。水は身の回りにありふれているため、普段はそこまで気にも留めないかもしれない。しかし人が生き永らえるためにも水は不可欠であり、その役割は思っている以上に強く、個性的、特徴的でもある。生命の誕生も水なくしてはあり得ないほどだ。
その水がもっともエネルギッシュで爆発的な形になっているのが滝ともいえる。このたびは湯河原五大滝のうちの一つ、不動滝から水のもつふしぎな力にも着眼し、このまちの土壌を考察してみたい。文豪たちのような創作者をはじめ、街や人そのものにもたらす役割を滝や川、水という視点から見つめるとどうなるのだろうか。
いざ、街のふところへ~秘境はしっとり、ひっそりと
滝のまち湯河原。湯河原五大滝(白雲の滝、清水の滝、五段の滝、だるま滝、不動滝)の一つである不動滝を擁するのは、この街の奥座敷とも呼ばれる奥湯河原だ。
湯河原のコアな魅力がぎゅっと凝縮されたふところへいざなうのが、駅前から出ているバスである。旅情を誘う特急などの電車もいいが、バスはそれとはまたひと味違った持ち味が光る。街の細部や深部へいざなうバスは電車にはないふところの深さが魅力だ。
バスは誰にでも、街の知られざる顏と知り合うことをゆるしてくれる。湯河原のふところ行きにしてひときわ優しいバスに揺られ、向かうことおよそ20分。とはいえ乗客も少なく、道も混まず。体感的には10分ちょっとで着くといったところだろうか。湯河原駅前から歩いて行こうと思えば行かれる距離ではあり、案外アクセスは楽である。
バス内では外国人にも向け、英語で”Fudoudaki” 行きであることを知らせる一応のアナウンスもされている。とはいえ日中でも混雑度は低く、この街の奥へ向かう乗客は自分以外誰もいないことも珍しくない。熱海や箱根、小田原といった近隣の観光地へ人が分散していってくれるおかげで観光客も少ないからこそ、これぞ秘境といった隠れ家・お忍び感もひとしおである。それもまた文豪たちを惹きつけた理由の一つなのだろう。余計な雑音がなく、落ち着いて創作に集中できる環境としては申し分ない。
PartⅠでも触れた湯河原ゆかりのミステリー作家、西村京太郎の戸津川警部シリーズ「熱海・湯河原殺人事件」にて、冒頭に出てくる「男」を乗せ、夜の海岸線を走るタクシーのシーンには、こう現されている。
「奥湯河原で、待ち合わせですか?」
と、運転手が、きいた。
「どうして?」
「熱海のホテルから、わざわざ、隣の湯河原に行くといやあ、向うにかわいい娘(こ)を待たせていると、誰でも思いますよ。おまけに、奥湯河原だ」
三十五、六の運転手は、おしゃべりだった。
---中略---
「有名タレントや政治家はよく、湯河原をお忍びに使うんですよ。この前も、有名タレントのNを、奥湯河原まで乗せましたよ。ありゃきっと、噂の女性アナウンサーと、湯河原で会うんだと思ったね」
---中略---
「お客さんも、向うにいい娘を待たせてるんでしょう?」
「くどいな」
「え?」
「少し、黙っていろよ。それ以上喋ると殺すぞ」
(『戸津川警部シリーズ 熱海・湯河原殺人事件 第一章 帰ってきた男』より抜擢)
物語の中、タクシーは湯河原温泉の大きな看板を見ながら左に折れ、川沿いの道を奥湯河原に向かって走っていく。湯河原駅前から出ているバスで同じルートをなぞるように進み、当記事も奥湯河原へ。いよいよ秘境である。
開かれていく五感
滝といえば大体必ずついて回る言葉の一つに、マイナスイオンがある。不動滝にしても然り、必ずといっていいほど不動滝もマイナスイオンたっぷりだとか、その筋の解説がテッパンのようだ。単に自然の中で癒される、とか滝が豊富に放つマイナスイオンが浄化作用を促してどうの・・・という具合に。水が激しくほとばしる場所としてそれはあるとしても、これは少々アバウトすぎているようにも思う。
パワースポットとしても名所である不動滝だが、ここには湯河原のしっとりした静寂と秘境感が凝縮されているともいえる。そしてこのふところから生まれた静寂は藤木川へ注がれ、街中へ運ばれていく。
箱根火山外輪山の南東に位置する大観山(たいかんざん)を源流とする渓流はこの奥湯河原あたりで藤木川という清流になり、街の中ほどで千歳川と名を変える。湯河原はこの清流沿いに発展してきた。源泉資源としての役割からも、湯河原は水によって育まれている街でもある。
湯河原の街を流れる藤木川支流にかかるこの不動滝は一年を通し、豊かな水量を誇る。不動滝はド迫力でこそないが、ゆるやかな時の流れ方も含めたこの独特の質感は水によってこそもたらされ、湯河原の街全体に溶け込むように浸透しているように思う。これぞ秘境という具合に。そしてそこには五感が開かれていく感覚も含まれるのではないだろうか。
この街に逗留した名だたる文豪たちも、この五感が開かれていく感覚をどこかしらで感じ取ったからこそ湯河原を愛したのではないかと思えてならない。創造の世界に生きる人間にとって、感性のアンテナが立ったり研ぎ澄まされたりがものをいうことは言うまでもないからだ。何しろそれに基づいて作品を創り出していく。この街なら感性を磨きながらの創作が日常の暮らしの中でできる。湯河原は多くの文豪たちにそう判断された街なのだろう。創作の地としてこの環境に目をつけた文豪たちの目はやはり高い。
小ぢんまりとしていながらも清々しさがある不動滝において、凛と澄んだ空気感に洗われた気分を覚えたり、意欲が出てきたという訪問者も少なからずいる。そもそも人体の6~7割が水であることからも、体は水でできているといってもいい。滝に近づくほどエネルギーをもらい、元気になっていく感覚も自然なことなのだろう。もっと言えばこの星の7割はその水の集大成である海である。
「地球は青かった」。宇宙からこの星を見た人類初の宇宙飛行士ユーリー・ガガーリン少佐が残したという名言を、ふと思い出す。原文の日本語訳では「空はとても暗かった。一方、地球は青みがかかっていた」とされるが、漆黒の宇宙にあり、そこにぽっかりと浮かぶこの星は青くかがやいて見えたのだろう。取り巻くオゾン層と地球の表面を7割も覆っている海が、この星を青く見せている。天から降りそそぐ雨が大地にしみ込んで地下水となり、わずかずつ滴り出た水が沢になり、川になり、海へ注がれ、この美しい星を創っている。
小さな水源に始まり、不動滝もそうであるように、資源や風景としても人間の暮らしに潤いをもたらすことをも含めた多彩な働きをしながら海へ。そして太陽の熱で蒸発し、水蒸気となってまた天へ還る。そうして決してとどまることなく、特定の形を持たない。しなやかでまろやかな一方、滝のように大胆で爆発的な一面も見せる。水というものは何ともふしぎな性質の生きもののようだ。
水はさまざまな姿に形を変え、太古の昔からずっと循環しつづけ、この星にも人体一人ひとりの中にも巡っている。水は今日も、淡々とただいつもの仕事をしている。今日の不動滝においても同じ天と地を行き来する水の遥かなる旅路は、たまげるほどダイナミックだ。
水の惑星に生まれた私たち。人類の長い歴史の中、祖先たちが水辺に暮らしをもとめ、数々の世界遺産を残してきたことにも現れているように、水は生きるのに欠かせない。7割が水ででき、小宇宙のようなものだと言われる体をもつ私たちが滝を見るとき、地球との切っても切れない絆に本能レベルで反応しているからこそ、必然的に身も心も元気になるのだろう。人類は何かしらプラスの復活エネルギーを自然界から得ているに違いない。
果てしない地球システム~湯河原ジオロジー。凄いぞユガワラライト
不動滝でもう一つ外せないものに、火山帯ならではの沸石がある。これまた果てしない地球システムにより生まれた産物で、その名も湯河原沸石(Yugawaralite)、ユガワラライトと来た。アマチュア鉱物研究家、故櫻井欽一博士らにより、この不動滝から発見された希少な沸石である。PartⅠでも触れた湯河原火山をつくる凝灰岩の地層に入り込んだ熱水により、二次的に生まれた鉱物だという。日本の地名がついた唯一の沸石でもあり、神奈川県の鉱物にも指定されている。
湯河原火山帯だけに、ここにももれなく源泉やぐらがある不動滝ゾーン。周辺川沿いの地球の鼓動、源泉ドッカンドッカンも凄いが、地球が地道に積み重ね、営んできた足跡でもある湯河原沸石も見逃せない。その途方もない年月を思うとコンパクトな場所でありながらここにも壮大な地球ロマンを見出せる。
現在では殆ど見られないという天然記念物であり、硫酸や塩酸にも溶けにくいという沸石。湯河原の地名は鉱物学者、とりわけ沸石専門学者にとっては世界に通用するという。 凄いぞユガワラライト。
ということで、駅からちょっとひと足伸ばしただけで、このような奥湯河原地質にも触れられる。世界に通じる湯河原ジオロジーである。
湯河原沸石は火山帯ならではの大発見だが、もっと凄いのはこれ以外にも未だ発見されない何かしらの果てしない地球ロマンを垣間見る自然界の掟が今もなおこの湯河原火山帯のどこかに眠っている可能性すらあるということである。滝同様、湯河原ジオロジーもまた人知を超えた自然界の掟による地球のからくりやおどろきの未知を、今この瞬間も孕んでいるのだ。その秘めたる可能性を思うとき、不動滝とワンセットでさらにこの場への神秘が深まらざるを得ない。今は目に見えなくても果てしない地球システムがあるかぎり、新たな地球科学の扉がいつかまたどこかで思いもよらない形でドカァァーーン!!と開く可能性は眠り続けている。未知なる湯河原発見、おどろきのドッカン大会はつづくかもしれない。
川の時間~そこでしか想えないもの、感じられないもの
不動滝の水は藤木川に注がれ、今日も湯河原の街中を絶えず流れている。身近にこの川や水があるということは暮らしへの影響力が非常に大きい。そうして街中に川が一本流れているだけで街の空気感を含めた雰囲気やそこに暮らす人の感情、時間の流れ方の質をも変える力があるからだ。
ここで、そこでしか感じられないものや、そこでえしか想えないものという意味での本当の豊かさについて思うことがある。お金に換算できる豊かさが何でも手っ取り早く合理的に手に入る都会よりも、目に見えないエネルギーの豊かさにおいては不動滝やその水源を運ぶ藤木川のような自然のある湯河原のような場所の方がその何倍も豊かなのだろう。こうした豊かさを重んじるのは、作家のような創造者であればなおさらではないだろうか。
この藤木川のすぐ目の前に、西村京太郎は居を構えた。ここは川ならではのゆらぎゆく時間が一帯を治めている。この場ならではの質感を思うと、氏が湯河原に流れる澄んだ空気を気に入り、この街を終の棲家として選び、この地で創作の筆を取ったというのも納得である。氏はここに暮らし、創作の筆を取ったのか・・・そう思いつつ邸宅のたつ道沿いに流れる藤木川の瀬音に耳を澄ませると、その水量は多く、ザザーッとなかなかの音量だ。でも氏はこれをうるさいとは思わなかったのだろう。水音がどうあれ、氏のもつエネルギーや感性とその場所が一致したからこそここに暮らし、生涯創作に勤しんだのだろう。滞りなく、絶えず流れ続ける川と創造者の流動性が重なる。
そこでしか感じられないものや、そこでしか想えないもの。都会の直線的な時間とは対照的な川の創り出す時の中でふと藤木川に視線を落とすと、いまこの瞬間にしかない時の流れが水面にゆらめいていた。そこまで大げさな話しではなくても、この川があるからこそ、この川の性質のおかげで温泉街の情緒を形作るだけに留まらない独特の湯河原質感を創り上げている。水もまた、創造者である。
地球との強い絆
世界のあらゆる滝は人類にインスピレーションを多々あたえてきた。人類がこの星とともに数奇な運命を辿ってきたように、自然界で偶発的にできた滝もまた数奇な運命をいまもなお辿りつづけている。不動滝においても然り。湯河原の静かで素朴な、でも余分なものがないからこそ感性を開く澄んだエネルギーに、文豪たちに愛されつづけた理由にもつながるであろうこの街の根底に流れる源泉を見た気がした。街にはこのエネルギーが根底に流れている。
PartⅠでも触れた湯河原の街中は特段これ!!といった見どころがあるわけでもない。にもかかわらず、ただ街中を歩いているだけでもなぜか妙にホッとするような、素朴な落ち着きがいまもなお変わらずつづいているのだ。滝のまちだからこそ、それは川によって運ばれ、古くからの素朴でゆったりとした空気感が溶け合った湯河原独特の土壌が生まれているように思える。源流が滝となり川となり、水によってもたらされた街の質感の豊かさやふしぎさは、未だ色褪せていない。地球上の数々の文明が水に育まれてきたように、文豪たちの感性もまた不動滝も含めた湯河原の水と空気感に育まれてきたのではないだろうか。彼らは湯河原のこうした質感にしっくり来たからこそ、長らくこの地に逗留したに違いない。
世界に通じる希少な湯河原ジオロジーに、切っても切り離せない人類と水との絆。文豪たちの感性を喚起し、感覚を研ぎ澄ませてきたであろう不動滝や水のはたらきを通し、地球と人間の絆はやはり想像以上に堅固に結ばれているのだと分かる。その認識をもって、改めて湯河原が立体的に見えてくるだろう。