まずは、11月初旬に行われた、「かしまんにわか一座 賑い商(にぎわいあきない)はっぴぃ♡かむかむ」の「70歳のラブレター」というお芝居のワンシーンをご覧ください。
いかがでしたでしょうか?佐賀弁は聞き取れたでしょうか?これが「佐賀にわか」です。
「佐賀にわか」と聞いても、ほとんどの方はなんのことかわからないと思いますので、先に公演の様子を少しご覧いただきました。
「佐賀にわか」とは何か、とても簡単に言うと、佐賀弁を使ったお芝居のことです。
賑い商 はっぴぃ♡かむかむさんは、佐賀県西南部・鹿島地方の佐賀弁でお芝居をされています。「かしまんにわか」というのは「かしまのにわか」という意味です。
九州では、もともと素人が集まり、その地方の言葉でお芝居をする「にわか」という演目が郷土芸能としてあったそうです。佐賀の他にも「博多にわか」や「肥後にわか」などがあります。肥後にわかでは、ばってん荒川さんが有名ですね。
佐賀にわかで有名なのは、筑紫美主子(ちくしみすこ)さん。筑紫さんは2013年に亡くなりましたが、サガテレビのコマーシャルには筑紫美主子さんの佐賀にわかDVDのコマーシャルがよく流れています。佐賀出身ではない私も、そのコマーシャルで佐賀にわかのことを知りました。
佐賀には素人やプロで作った、佐賀にわか劇団がいくつかあり、それぞれ活動を続けています。今回は佐賀にわか劇団の一つで、プロの劇団である「賑い商 はっぴぃ♡かむかむ」の座長、いなばゆうこさんを取材して、佐賀にわかの魅力や今後についてお話を聞いてきました。
佐賀にわかの歴史
いなばゆうこさんにお話を聞く前に、佐賀にわかの歴史を紹介します。
にわかの起源は、中世の「さるごうわざ」や「にわか踊り」にあります。それが近世に発展して「にわか狂言」として芸能化されました。佐賀には江戸時代後期に博多を経由して、にわかが伝わったそうです。
にわかとは、その言葉が示すとおり、即興的に演じるコミカルなお芝居です。しかし佐賀では鍋島藩の家訓「芸能上手といわれるは馬鹿風なり」という武士道精神が根付いており、芸能を軽んじる風土があったため、佐賀にはにわかが定着しませんでした。
しかし、そんな中でもにわかを演じる人たちがいて、「にわか研究会」というのもあり、その関係で後の佐賀にわかの立役者・筑紫美主子と、彼女の夫になる古賀儀一が親しくなったそうです。
昭和16年(1941年)、筑紫美主子の夫の古賀儀一が、佐賀初の商業的佐賀にわか劇団を立ち上げ、その座長に筑紫美主子が就きました。
その背景には戦争中に佐賀県が中国大陸へ演芸慰問団を派遣したことがありました。慰問団には古賀儀一、筑紫美主子などが参加。兵士たちからは好評だったことから、古賀はにわかの興行化に対して手応えを感じたのです。
しかし、佐賀ではどの劇場でもにわかを上演することはできず、熊本、長崎で公演を行いました。
佐賀でにわかを初上演したのは、なんと昭和27(1952)年のことだったそうです。その後昭和37年(1962年)には、筑紫美主子劇団が浅草の常盤座に進出。筑紫美主子のドキュメンタリー映画が作られたりして、佐賀にわかが注目を浴びました。
佐賀になかなか根付かなかった佐賀にわかでしたが、佐賀にわかを全国的に有名にした筑紫美主子の功績は大きく、昭和52(1977年)には佐賀県文化功労賞、平成2(1990年)に佐賀新聞文化賞、平成4(1992年)に文部大臣賞など、様々な章を受賞しています。
実際に佐賀にわかの最新公演を見てきました!
2021年11月初旬、「賑い商 はっぴぃ♡かむかむ」一座が佐賀県山内町で佐賀にわかを演じました。この日の演目は「70歳のラブレター」。ストーリーは、両親を早くに亡くし祖母に育てられた孫の恋人の祖父が、その祖母の昔の恋人で、最後は孫も祖母も幸せになるという人情もの。
お芝居の途中に、観客席まで降りてきて、おばあちゃんが昔の恋人を探し回ったり、孫が「おばあちゃん、ダイエットできると思う?」と観客に聞いたりと、観劇客をも巻き込んでのお芝居でした。
会場のあちこちから声がかかったり、笑いがあがったり、最後には涙する人も。終わったあとはみなさん「面白かったね~」と言いながら帰っていきました。
私も今回久しぶりに佐賀にわかを見て、大爆笑というのではないのですが、場面場面で笑うシーンがあり、気がついたら劇を見ている間、ずっとニヤニヤしっぱなしでした。
こんなにみんなを笑わせたり、泣かせたりできる「賑い商 はっぴぃ♡かむかむ」の座長さんとは、一体どんな方なのでしょうか。どんな思いで佐賀にわかをされているんだろうと、さらに興味が湧いてきました。
賑い商 はっぴぃ♡かむかむ座長・いなばゆうこさんインタビュー
いなばゆうこさんの経歴を紹介します。
いなばゆうこさんは1965年生まれ、役者をされながら
- 「株式会社佐賀地域デザイン研究所」取締役企画室長
- 鹿島市社会教育委員
- 地域とつながる高校魅力づくりプロジェクト委員
- 鹿島市いじめ防止等対策委員
- 一般財団法人鹿島市民立生涯学習・文化振興財団監事
- 読み語り「おはなしかあちゃんず」代表
- 賑いODORIKOハマガール代表
など、幅広く活躍中です。
最初から役者さんだったのかというとそうではなく、タウン情報誌編集者をされていたそうです。その後、平成元年に江戸時代のテーマパーク「佐賀元祖忍者村 肥前夢街道」を運営する「嬉野温泉 肥前夢街道」に入社。企画課を経て、芝居や大道芸の訓練を受け、芝居小屋座長を任されました。約7年間、園内にて時代劇や大道芸を上演していました。
結婚、出産を経て、育児のため一旦は退職しますが、子育ての傍ら、フリーの芸人として活動を再開。2000年に鹿島地方の方言を使った人情芝居を考案し、「賑い商 はっぴぃ♡かむかむ」を旗揚げしました。2021年現在、佐賀県鹿島市を拠点に県内外で活動中です。
その他にも、
- STSサガテレビ「かちかちプレス」で佐賀弁講座(2012-2018)
- NBCラジオ「にわかで佐賀すき」レギュラー
- 日本テレビ「秘密のケンミンショー」VTRにて出演
- 島田洋七監督映画「佐賀のがばいばあちゃん」方言指導&出演
- NHK「怪獣を呼ぶ男」に星野源の母親役で出演
- 「山代ガス」にわか劇場(CM)
- 「ストップ温暖化」にわか劇場(CM)
- 「さと山」消防団募集(CM)
- 「佐賀の民話」ナレーション
など、テレビやラジオでも多数の出演経験をお持ちです。
尊敬する役者は淡島千景、筑紫美主子、チャップリン。
「時代が変わる」というメッセージを受けて転職
―人生のターニングポイントになったことは何でしょうか?
いなばゆうこさん(以下、いなば):昭和から平成に変わったときです。タウン情報誌の編集者をしていて3年目で、仕事が軌道に乗っていたのですが、平成に変わったときに「時代が変わる」というメッセージを受けたような気がしました。それで、それまでうまくいっていたそのタウン情報誌の仕事を、急にやめてしまいました。今思えば、なんて申し訳ないことをしたのかと思います。でもそのときは「時代が変わる」と気が急いて、居ても立ってもいられなかったので退職しました。
気が急いたわりには1年間アルバイト生活をしていて、そのときに佐賀県に「肥前夢街道」というテーマパークができるという話を聞き、入社試験を受けることに。開業1年前から雇っていただいて、営業さんと一緒に開業の宣伝広報活動をしました。
開業後は企画課に配属されて、役者さんのお世話や、園内のアトラクションを企画する仕事をしました。
―最初は役者さんではなかったのですね。
いなば:そうなんです。でも、役者さんが演じている大道芸や時代劇を見ているうちに、楽しそうだなあと思ったんですね。今思えば、パフォーマンスをすることにすごく興味があったんでしょう。
東京から役者さんを呼ぶと経費が高くなるので、経費節減にもなるため佐賀県内から募集して、自分たちで時代劇の役者さんを育てようというプロジェクトが始まりました。
当初、私はその人たちのお世話係でした。その若い子たちのお世話をしながら、その子達が役者のトレーニングを受ける講師の先生たちのお世話もしていました。だから私が一番近くで先生たちの講義を受けていて。するといつの間にか前のめりになってしまって。役者の方に進みたくなり、社長に直談判して役者になりたいといいました。
ブルーアイに導かれて佐賀にわかの道へ
―佐賀にわかを演じるきっかけは何だったのでしょうか?どうして佐賀にわかをしてみようと思われましたか?
いなば:きっかけとなったのは、結婚、出産を経て育児のために肥前夢街道を退職したことです。子育てをしているうちに、舞台で拍手をいただいたことが心から離れず、昔培った芸を持って小児病棟などに行くようになりました。
私は南京玉すだれを得意としていて、というか、それしかできなかったんですけど。ある日ある人から「あんたそれしかしーきらんとね(それしかできないんですか)」と言われて。「他に芸なかね?(他に芸はありませんか)」と。むかっ腹が立って、なにかしようと。
現代劇はみんなやってるし、何がいいかなと考えたときに、筑紫美主子先生のお顔が浮かんだんです。にわか、いいなと。にわかをやってみたいと思って。肥前夢街道時代に舞台でお世話をしていたときに、筑紫美主子先生との出会いがありました。その後、いろいろなところで筑紫先生とばったりと会うようになり、ご縁があるなと感じていました。
いなば:ある舞台でお茶をお持ちしたときに、筑紫先生がじっと私を見つめて「あなたも私とおんなじね」とおっしゃったんです。その言葉とそのときのブルーアイ(注:筑紫美主子さんはロシアの血が流れています)、すごくきれいなブルーアイに導かれるようにしてにわかの道に進んだんじゃないかなと思います。
―「おなじね」というのはというのはどういう意味で言われたのでしょうか?
いなば:筑紫先生も女性で座長をされているのですが、私もその当時から女性で「座長」という立場だったからではないでしょうか。
そして、つてを頼って筑紫家の門をたたきました。
そのとき、筑紫先生は病気ご療養中だったのでお弟子さんは取っていない状態でした。でも「頑張んしゃいね(頑張ってね)」と言ってくださり、筑紫家にはいつも伺わせていただいて、可愛がっていただきました。
見様見真似で、筑紫先生のモノマネから始めました。
佐賀にわかは私の魂の一部
―佐賀にわかを、佐賀にわかを知らない人に紹介するとしたらどのように紹介されますか?
いなば:佐賀のふるさとの言葉で、親子の情愛や隣人愛を表現いたします。言葉が通じなくても、魂で通じるところがあります。言葉を超えた愛を感じてください。遠赤外線的なほっこりした笑いがウリです。
―佐賀にわかに対して、どのような思いで仕事をされていますか?
いなば:一生していかないといけないし、一生していきたい芸能です。なくてはならないもので、自分の中の魂に組み込まれているものですね。
―その「なくてはならないもの」とはいなばさんにとってですか?それとも地域や文化にとって?
いなば:私にとってなくてはならないものです。私の中のプライドみたいなものかもしれません。地域に対する愛情もものすごくあり、私の人生が愛と感謝に彩られています。産んでいただいて、地域のみなさんからも育てていただいて、こういう芸能を始めても応援していただいて。それに対してお礼の気持ちも含まれています。地域に対するお礼ですね。大いなる自然だったり、人だったり、文化だったり。
―佐賀にわかの魅力とは何でしょうか?
いなば:方言はふるさとの魂です。その方言を使って人情喜劇の、今は希薄になった家族の形態をこってこてに演じています。昔テレビでドリフなどを見て笑ってましたよね。ああいうものとも通じます。
にわかによって笑いを引き出すというのが、やりがいがあります。笑っていただいてなんぼですね。
テレビがなかった時代、筑紫先生たちが興行されていて舞台が本当にわいていたと聞いています。「座布団に花が咲く」という言葉があって、笑いすぎておもらしして、座布団が濡れることを言うそうなんですが、座布団に花が咲いていたそうです。また、筑紫先生の公演を観劇中に亡くなられた方がいらっしゃって。筑紫先生が訴えられる覚悟でお参りに行くと、ご遺族から「こんなに笑っていけたのですから幸せでした」と言われたそうです。
―なぜ今まで続けてこられたのですか?
いなば:仲間がいたからですね。一人では面白くない。今日出演している中で孫役の役者さん以外は、みんな肥前夢街道出身です。裏方さん2人はそのまま裏方さんだったし。絆が深いですね。
―シナリオはどなたが書かれていますか?
いなば:私が書いています。最初はほぼ実体験でした。私は母にありがとうが言えない子だったので、その母との軋轢を、ぶつかるシーンも含めてシナリオで表現していました。母に1回だけ元気なときに見てもらって、怒られました。「あんた、あたしのこと書いたね」と。でもそのお芝居の中で、「体に気をつけてね。人生楽しんでね」というのも込めていまして。それは伝わったかなと思います。
お芝居は感動の連続
―今までの芸能生活の中で苦労した事、楽しかった事は何ですか?
いなば:苦労したことは、忘れますね。でも、そうですね…。楽屋ってメイクとかしなきゃいけないから結構大事で。ある公演で、お隣がお化け屋敷をしていて明かりが漏れるから電気を消してくれと言われ、真っ暗な中で裏方さんが持っていたライターの火とか携帯の明かりでメイクをしました。
他にも、雪が降りしきる中、外のテントで何の暖房器具もないまま支度をしたこともありますね。その時は少しこたえましたね。あとは苦労ってあんまりないですね。役者は基本ドMだから、困難があればあるほど燃える。それを芝居に投影しようとします。
よくしていただけることばっかりですよ。楽しかったことって数え上げればきりがないし、毎回の公演で「楽しかったね~」と帰ってくる。お客さんが合いの手とかを入れてくれるのがすごくタイムリーにはまったりとか。
県立盲学校さんで公演するときには、すごく悩んで。視聴覚障害のあるお子さんたちに、この芝居をどう受け入れていただけるかなと。耳が不自由なお子さんや、目が不自由なお子さんにどう表現すればいいのかと。すごく細かく噛み砕いて、セリフもものすごく細かく考えて練習しましたが、登場した瞬間に拍手があったんですよ。足音で舞台に立ったと判断されて拍手くださって。
いなば:その中で、耳は聞こえるけど目は見えないという女の子がいて、その子がずっと耳をふさいで芝居を見ていたので、これは私たちの声がやかましいのだろうと思っていました。すると、決め台詞のときに「パンパカパーン」とか効果音を口で言ってくれて。すごくそれで盛り上がって。
後で聞いたら、彼女が耳をふさいでいるときは集中しているときなのだと。集中してお芝居を聞いてくれていたんです。その時は涙が止まらなかったです。セリフも気を遣って、覚え直していたけれど、普通の芝居でやりました。心が震える、上演経験でした。
―お芝居をされていたら心が震える経験も多いでしょうね。
いなば:感動の連続ですね!私たちが、毎回感動の連続です。
―今までの芸能生活の中で、想い出深いことはありますか?
いなば:南カリフォルニア佐賀県人会の、100周年記念式典のアトラクションに出してもらったことがあります。一人にわかをロサンゼルスのホテルニューオータニで演じて、そのときにおじいちゃんの顔でやったんです。
あとから佐賀県人会の人が「あなたの顔を見ると懐かしい」とおっしゃって。「私のこの顔は、私の実家近くの楠田医院というお医者さんの顔ですよ」と言ったら、その方がいきなり泣き出して、「僕の叔父です」って。
アメリカまで行ってシンクロニシティを感じました。この道で間違いないなと思いましたね。
―佐賀にわかをしてよかったことと、悪かったことを教えてください。
いなば:佐賀にわかをしてよかったことだらけ。笑っていただけること、いろんな人に出会えること、大好きな筑紫先生の魂にずっと触れていられること、佐賀県を愛している気持ちを持ち続けられること。
やって悪かったことといえば、猫背になったことですね。おじいさんやおばあさん役をするので姿勢がめちゃくちゃ悪くなります。職業病ですね。
―味わいのある佐賀弁を紹介してください。
いなば:「ちゃーぎゃーぶん」ですね。意味はいい加減という意味です。よくも悪くもいい加減。「あん人はちゃーぎゃーぶんにしんしゃっけん(あの人はいいかげんにするから)」「そいは無理せんでよかよ、ちゃーぎゃーぶんにしとって(それは無理しないでいいですよ、適当にしてください)」などと使います。
他には「ゆっつらーと(ゆっくりと)」とかですね。このスピード時代ですから。「ゆっつらーと」と声をかけたくなります。
きついことがあっても笑いを忘れずに
―コロナになってかなり変わったと思いますが、影響はいかがですか?
いなば:このような公演は1年8カ月ぶりです。その間は私の一人芝居とか、ラジオ出演もありました。動画の配信も1回しました。でもあとはなにもないです。
動画の配信は、目の前にお客さんがいないことが非常にきつかったです。佐賀にわかは目の前のお客さんとやり取りをしながら作っていきます。一応台本はあるけれど、お客さんの反応を見ながらどんどん変えていくし、役者同士の息で変わっていくものなので、それができなかったのがきつかったですね。
―これから先のいなばさんの目標を教えてください。
いなば:できるだけたくさんの方に、にわかを見てほしいですね。また、2020年は「かしまんにわか一座 賑い商 はっぴぃ♡かむかむ」の20周年だったのですが、コロナでできなかったので、2025年には25周年公演をしたいです。世界中にある佐賀県人会でも上演したいですね。そして、若い世代にも、にわかの楽しさを伝えていきたいと思っています。
―この記事を読んでいる方に伝えたいことがありましたらお願いします。
いなば:「苦しみの先に行き着いたとこには笑いがある」というのは筑紫先生から教えていただいたことです。私も、どんなに苦しいことがあってもいつか笑いになると言い聞かせて生きてきたと思います。
なので、「いろんなきついことがあっても、笑いを忘れないようにしよう」と呼びかけたいです。
―いなばさん、今回はお話を聞かせていただいてありがとうございました。
次世代への継承が望まれる、遠赤外線のようなほっこりした「佐賀にわか」
今回は佐賀の郷土芸能の一つである「佐賀にわか」を紹介しました。ふるさとの魂である方言を使ってのお芝居。ほっこり笑えて泣ける人情喜劇。ぜひ次の世代にも、佐賀にわかをつないでいってほしいと思いました。
いなばゆうこさんの佐賀にわかに対する熱い、確かな思いもお聞きでき、ますます佐賀にわかと、いなばゆうこさんを応援していきたいと感じました。
みなさんも、機会がありましたらぜひ一度佐賀にわかをご覧になってください。
「賑い商 はっぴぃかむかむ」
公式HP:http://happy-cam.sakura.ne.jp/