古代ローマと日本。地理的にも、時間的にも遠く隔たった存在と思えるこれらには、実は共通項が少なくない。その顕著な例が、入浴文化である。
ローマ人にとって公共浴場(テルマエ)に行くことは生活の重要な一部を成していた。4世紀の『ローマ市総覧』によると、ローマ市内には大規模な浴場は11、小規模な浴場は900軒以上はあった、とされている。
現代の日本でも、街には銭湯やスパなどの入浴施設は数多くあるし、温泉地への旅行も人気がある。最近ではサウナがブームになるなど、風呂は文化の重要なパーツを成している。
これら2つの世界を「風呂」を介してつなぐ漫画『テルマエ・ロマエ』(作・ヤマザキマリ)はベストセラーとなり、実写映画やアニメが作られたことを記憶している人は少なくないだろう。
現在、汐留パナソニック美術館では、テルマエ(公共浴場)を中心に、ローマの生活文化を紹介する『テルマエ展』が4月から開催されている。
今回は、展覧会内容の紹介と共に、ローマのテルマエの世界に深く分け入ってみたい。
①テルマエの歴史
テルマエの源流は、古代ギリシャに求められる。スポーツが盛んだったギリシャでは、運動施設(ギュムナシウム)には運動後に汗を洗い流すための浴場が併設されていた。また、医神をまつる神域には、医療行為の一環として、入浴設備が作られている場所もあり、湯を温める炉や床下暖房などの設備も備わっていた。
「テルマエ」という言葉自体も、「熱い」という意味のギリシャ語「テルモス」に由来している。
このギリシャ人たちの浴場を取り入れ、より規模の大きなものとして作ったのがローマ人たちだった。
紀元前31年に、オクタウィアヌス(後のアウグストゥス)はアクティウムの海戦でライバル・アントニウスとエジプトの連合軍に勝利し、長きにわたるローマの内戦に終止符を打った。そして紀元前27年には、皇帝に即位し、帝政をスタートさせる。
その2年後、アウグストゥスの右腕で娘婿でもあったアグリッパが、市壁外にある自分の所有する土地を整備し、市民のために公共浴場を建設した。
これが、「テルマエ」の第一号である。
やがて、ローマの中心部にもティトゥス浴場(80年)やトラヤヌス浴場(109年)などの大きな浴場が作られるようになる。
さらに時代が進むにつれて、約1600人を収容できるカラカラ浴場(216年)、ディオクレティアヌス浴場(306年頃)に至っては約3000人と、規模はどんどん大きくなり、豪華さも増していった。
また、ローマ市内だけではなく、属州にもテルマエは作られたし、各地に涌き出る温泉を楽しむこともあった。ドイツのバーデン=バーデンや、イギリスのバースなど、現在でも温泉保養地として知られている場所には、温浴施設の遺構が残っている。
②ローマ人とテルマエ
このように、テルマエは、ローマの帝政と歩みを共にしてきた。皇帝の命で建てられたものも少なくない。だが、なぜこんなにもテルマエが作られたのだろう?そして、なぜ皇帝たちはテルマエの建設に力を入れたのか?
その答えは、「重要な政策の一環」だったからである。
もともとローマは、農業に経済の根幹を置き、質実剛健であることを美徳としてきた。
しかし、紀元前2世紀、領土が拡大し、地中海全域にまで達すると、各地の富が流入し、人々の生活も価値観も大きく変わってしまう。
富める者は、さらに広大な土地を所有するようになると、農作業を奴隷に任せ、自らは都市に移住。大きな邸に住んで贅沢な生活を送るようになった。
対して、土地すらも失い、日雇い労働で生計を立てなければならない者は少なくなく、彼らもまた仕事を求めて都市に出てきた。が、彼らの住まう集合住宅(インスラ)は狭く、水道や台所などの設備もなかった。
パンは、文字通り食糧を指す。主食のパンの原料となる穀物を特別価格で販売したり、時には無料の配布も行った。
サーカスは、剣闘士の試合や戦車競走、演劇など種々の娯楽を指す。それらは、人々を大いに楽しませ、ストレス解消にもつながっただろう。
そして、区分としては「娯楽」に分類できそうではあるが、やや特別な位置を占めているのがテルマエである。
剣闘士の試合などが、特別な日に催されるイベントであるのに対し、テルマエは人々の毎日の生活の一部として組み込まれていたからだ。
一日の仕事の終わりに、体を洗うだけではない。併設されている運動場で汗を流し、人と交流する。食事や音楽を楽しむこともできたし、朗読会などのイベントが開催されることもあった。
また、建物の内部は水に強いモザイク装飾で飾られ、大理石の彫刻が置かれるなど、テルマエは庶民が美術を楽しめる場所でもあった。
下の写真のように、展示室の一部は、床や壁の装飾や彫刻の配置など、テルマエの内部をイメージした設営の工夫がされている。そこから当時の様子を想像するのも楽しみ方の一つである。
普段は、身分などに縛られていても、テルマエで服を脱いで裸になれば、身分の上下は抜きにした交流も可能になる。皇帝がお忍びで来ることもあったと言われている。
あらゆる束縛から解放され、湯に浸かり、屈託なく人々と言葉を交わし、共に運動や音楽、食事を楽しむ時間を提供するテルマエは、まさに精神面での「インフラ」だったと言えよう。
大衆の支持を獲得するため、皇帝たちが、テルマエ作りに力を入れたのも頷けるのではないだろうか?(ヤマザキマリ氏の『テルマエ・ロマエ2巻』でも、皇帝の後継者の人気獲得のため、新たな工夫を凝らしたテルマエ作りを依頼されるエピソードが収録されている)
③ローマと日本
展覧会の第四章では、ローマからはるか東に位置する日本の入浴文化とその歴史が紹介される。
もともと火山列島である日本では、温泉が豊富に涌き、古くから資源として利用されてきた。古代には、皇族や貴族が温泉地に湯治に行った記録がある。戦国武将の武田信玄や豊臣秀吉の温泉好きもよく知られている。
また、仏教が入浴の功徳を説くことから、寺院内には入浴施設が作られたが、蒸し風呂がほとんどだった。
そして、江戸時代、大衆のための有料の入浴施設「銭湯」が町のあちこちに作られるようになる。最初は蒸し風呂だったが、江戸時代後期には全身浴ができる場所へと進化していく。
湯屋(大浴場)での入浴は庶民の生活の一部として定着。その様子は、浮世絵や式亭三馬の『浮世風呂』をはじめとする戯作本にも描かれている。
また、東海道などの交通網が整備されたことにより、温泉地への湯治旅行がレジャーとして庶民の間でブームになった。
これらの状況は、古代ローマのそれとよく似ており、比較すると、三つの共通項が見えてくる。
一つ目は、安定した政権のもと、数百年にわたる治安が維持されたこと。
二つ目は、交通網の整備。(「すべての道はローマに通ず」という言葉はよく知られている)
そして、三つ目が大量の水と燃料を供給できるシステム。
特にこの三つ目の条件は、大浴場の運営と維持に直接関わるものである。
3世紀頃から帝国は混乱の時代を迎え、395年、帝国は東西に分裂。コンスタンティノポリス(現・イスタンブール)を首都とする東ローマ帝国は15世紀まで存続するも、西ローマ帝国は476年に滅んでしまう。
これらの混乱の中で、ローマの水道施設は荒廃し、浴場の維持が難しくなった結果、中世にはヨーロッパから入浴文化そのものが消えてしまう。
一方、東ローマ(ビザンツ)帝国では浴場文化は生き続け、帝国滅亡後は、イスラム文化圏にも引き継がれた。
日本も、昭和30年代に内風呂が普及したことで、生活習慣として入浴が定着。温泉旅行や大型の入浴施設なども交えながら、進化を続けている。
最後に
古代ローマと日本。
二つの世界は、生活文化などがよく似ていることは、しばしば指摘されている。
「風呂」を媒介に二つの世界をつなぐ今回の展覧会は、少し風変わりな「小旅行」を提供してくれるものと言えるだろう。
『テルマエ・ロマエ』の主人公のタイムスリップを、追体験してみるのはいかがだろうか?
展覧会情報
展覧会名 | |
会期 | 2024年4月6日(土)〜6月9日(日) ※会期中、一部展示替えします。 前期:4月6日(土)〜5月7日(火) 後期:5月9日(木)〜6月9日(日) |
会場 | 汐留パナソニック美術館 |
時間 | 午前10時~午後6時(ご入館は午後5時30分まで) ※5月10日(金)、6月7日(金)、6月8日(土)は夜間開館 午後8時まで開館(ご入館は午後7時30分まで) |
休館日 | 休館日 |
料金 | 一般:1,200円、65歳以上:1,100円、大学生・高校生:700円、中学生以下:無料 |
展覧会ホームページ | https://panasonic.co.jp/ew/museum/exhibition/24/240406/ |