東京都の町田市立国際版画美術館で「自然という書物」展が5月21日(日)まで開催されています。自然をどのように描いてきたかを15世紀から19世紀のおよそ200点の西洋の書物でたどります。想像や幻想で描かれた花や木、虫や動物の姿にも注目です。
緑豊かな「芹が谷公園」にある美術館
東京都の町田市立国際版画美術館は芹が谷公園の南側にあります。この公園は11.4ha、敷地には豊かな緑と水辺があり、彫刻が点在しています。同館は世界でも数少ない版画専門の美術館として1987年に開館し、3万点を超える収蔵作品があります。
この自然に囲まれた美術館で「自然という書物 15~19世紀のナチュラルヒストリー&アート」展が開かれています。ナチュラルヒストリーは自然界のあらゆるものを研究すること、その表現は想像、写実からアートへと広がっていきます。展覧会では500年間の西洋の書物で自然がどのように捉えられ、表現されてきたかをたどります。それは自然観察の歴史、印刷の歴史、思想の歴史をたどることでもあります。
玄関を入ると、広い吹き抜けに階段があり、厳かな雰囲気に展覧会への期待が膨らみます。会場では一部の展示物をフラッシュがなければ撮影できるのも楽しみです。
第一章 想像と現実のあわい―15、16世紀
「自然」は「聖書」に次ぐ第二の書物であるという考えが、西洋の自然観の根底にあります。中世ヨーロッパのキリスト教では自然も父なる神が創造したものでした。
『年代記』の左ページ「天地創造」では神は左上の手で示唆され、円内には神が造った鳥と魚が描かれています。右ページ「アダムの創造」では神の全身が描かれ、アダムが土から湧き上がっているように見えます。本文と表紙をつなぐ「見返し」はマーブリングされた紙です。展示では書物の装丁、大きさ、厚さなども比べることができます。
木版は画を描く、版木に下絵を描く、版木を彫る、印刷するなど、分業で行っていました。著者、画とそれぞれの名前が書籍に記されています。ヴォールゲムートの工房にはドイツのデューラーが若い頃に働いていました。
彼は多くのエングレービング作品を残しました。細い線を駆使した立体感、明暗の表現がみごとです。
観念を擬人化した作品、後ろ向きに立つヘラクレスは擬人化された美徳と悪徳のどちらを選ぶのか迷っています。ヘラクレスがかぶっている雄鶏型の兜は雄弁を擬人化したもので、雄弁をもってその場をおさめようとする解釈もあります。
ナポリの薬種商インペラートがさまざまな自然物を集めて保管していた部屋を描いた版画です。左の書棚、右のキャネットにはぎっちりと貴重な品々が詰め込まれ、天井には貝や大きなワニまで飾っています。棒をもって指し示しながら、得意げに蘊蓄を話しているのは主でしょうか。
このように珍しい収集品を隙間なく陳列した空間は「驚異の部屋」と呼ばれ、のちに博物館になったものもあります。
第二章 もっと近くで、さらに遠くへ―17、18世紀
17世紀に入ると、「大航海時代」によって新たな植物などがもたらされ、望遠鏡や顕微鏡の発明によって自然の細部をより精緻に捉えることができるようになりました。版画の技術も木版画より細かい表現ができる銅版画が中心になりました。
前の展示風景の写真で、壁の中央部にひときわ大きく鮮やかな花の絵は書籍『アイヒシュテットの庭園』です。縦48cm、横40cmの大判に、1000種以上の植物を観察して、エングレービングに手彩色で仕上げています。花の正面だけではなく、裏側や根までが詳細です。薬用・食用ではない、鑑賞用の植物が描かれていることも特徴です。
この庭園はアメリカ大陸やアフリカ大陸から新種の植物がもたらされて、ヨーロッパに設立された植物園のひとつで、ニュルンベルクにありました。著者ベスラーはアイヒシュテットの邸宅・庭園の管理人でもありました。また、ベスラーが「驚異の部屋」をもっていたと知り、ベスラーのこだわりが感じられます。
布教のために世界中に出向いたイエズス会士からローマに集まった情報を、キルヒャーが『シナ図説』として中国の自然、風俗、文化をまとめました。実物を見ないで描いた挿絵は幻想的で、湖の中央に浮いている布で巻かれた人物は、釈迦の涅槃図のようです。
版画の技術は武具に施す装飾を印刷することから発達し、エングレービングとエッチングは銅板に線を彫り、くぼんだ線にインクをのせて刷る版画です。15世紀に始まったエングレービングは先が鋭い彫刻刀で彫った硬質な線が特徴で、線を交差して明暗をつけるなど、現代の紙幣にも用いられています。16世紀に始まるエッチングは銅板に塗った防蝕剤を削り、腐食時間や濃度などによって線に強弱をつけ、さまざまな質感が表現できます。両方の技法を効果的に用いることもあります。
イギリスの自然科学者フックは、自ら顕微鏡を設計・製作し、ミクロの世界を明らかにしました。自ら顕微鏡で観察して描いたミヤマクロバエの図では、羽の編み目や体の表面を覆う細かい毛までも克明に描いています。
オランダの植物学者ムンティングは著書『植物異聞』で、巨木が空に浮かんでいる幻想的な絵を描き、上部には天使が他種の枝を描いた紙を掲げ、下部には風景が描かれています。
ドイツ生まれのメリアンは幼い頃から昆虫を観察し、描いてきました。自ら南アメリカのスリナムに渡って、昆虫の変態を餌とした植物とともに克明に描き込んでいます。当時のスリナムはオランダ植民地で、1975年に独立しました。メリアンは女性であるために出版には困難があり、彼女の生涯は書籍にもなっています(『マリア・ジビーラ・メーリアン蟲愛する女』『マリア・シビラ・メーリアン作品集』)。
第三章 世界を分け、腑分け、分け入る―18、19世紀
18世紀は動植物の分類の礎が築かれました。観測器具の発明、探検家の世界周航、リトグラフの発明などが自然の表現に影響を与えました。
近代植物学の父と呼ばれるスウェーデンのリンネは、自然物を「種」と「属」の階層構造によって分類し、体系化しようとしました。展示のページは雄しべ・雌しべに注目して分類した体系が示されています。
18世紀末に発明されたリトグラフはヨーロッパに広がり、19世紀の主な印刷技術になりました。ペンで描き、化学処理を施すことで、大画面を使った豊かな表現が可能になりました。イギリスの博物学者グールドは鳥類図鑑刊行に情熱を注ぎ、リトグラフに手彩色を施して、鳥たちを生き生きと描いています。メリアンのエッチングと比べると、リトグラフの柔らかな描写がよくわかります。
ダーウィンはイギリス海軍の測量船に乗り、進化論の着想を得ました。展示ページの線図は種の変異を下か上に向かう線で示しています。進化論はさまざまな影響を及ばし、自然を神の創造物とみなしてきた人々には神の存在を否定するものと映りました。『進化論』の書籍を目にすることができる貴重な機会です。
ドイツの生物学者・哲学者ヘッケルが描いた海洋生物は正確で色鮮やかなばかりではなく、装飾性が際立つ配置をしています。このような科学と芸術の融合は、美術家にも受け入れられていきました。
第四章 デザイン、ピクチャレスク、ファンタジー
最終章では15~19世紀の自然の造形を活かした「デザイン」、自然を絵画的に表現する「ピクチャレスク」、自然を霊感源とした「ファンタジー」という言葉から紹介しています。バーン・ジョーンズ、ビアズリー、ミュシャ、ピラネージ、ターナーなど著名な画家も登場します。
ジョーンズは1851年のロンドン万博で監督を務め、著書の『装飾の文法』は世界の装飾様式を系統的にまとめた画期的なものでした。1ページのなかに収めたバランスと色彩が美しいデザインです。
イギリスの画家クレインは彫刻家と組んでトイ・ブック(子供向けの本)を多数精制作しました。アーツ・アンド・クラフト運動にも関わり、織物、壁紙、室内装飾なども手がけました。
ビアズリーはモノクロを効果的に使っています。模様をよく見ると、ギリシア神話に登場する自然の精霊サテュロスがさまざまなポーズでツタに絡まっています。
スラブ諸国を訪れて苦悩したミュシャが答えとして、神に捧げる祈りの言葉『主の祈り』を著しました。大きな円の下にある両手が小鳥たちを守っているようです。
『種の起源』を著したチャールズの祖父エラズマス・ダーウィンは、リンネの著作『植物の体型』『植物の属』を英訳し、自ら詩によって解説した『植物園』を刊行しました。この本を囲むように壁を飾っているのは『フローラの神殿』です。
ソーントンは、博物学者リンネの雄しべと雌しべによる植物分類方法に感銘を受け、この本の刊行を決めました。植物図鑑の図版にはほとんど背景が描かれないのに、この本ではそれぞれの花が主役になる背景を描き、独自の雰囲気をつくり出しました。縦50cmの版画が14点並ぶさまは壮観です。
19世紀には、幻想や想像は迷信などとして退けられましたが、現実とは異なる世界を生み出すファンタジーでは、自然のなかで小さな動物や虫と暮らす妖精も描かれました。
小口木版は、木を輪切りに切り出した堅い表面を版木にして、精密で繊細な表現ができ、ドイルの繊細な絵が再現されています。小口木版は銅版にくらべて安く、丈夫で大量の印刷に適するので、書籍や新聞を読む人が増えた19世紀に広まりました。
最後には、今回の展示で最大の大きさの書籍が展示されています。1ページの縦は75cmもあります。人体の構造を示す図であるのに、骨格標本は背景のサイを従えて、モデルのようにポーズをつくっています。
版画工房とアトリエ
2階には、版画家・駒井哲郎(1920~76年)が自宅で10年間愛用したプレス機が展示されています。版画専門の美術館なので、館内には版画工房とアトリエがあり、実技講座のほか、一般の方への開放、作家の公開制作などに利用されています。
ミュージアムショップでは町田市立国際版画美術館が所蔵する浮世絵を解説したシリーズ『謎解き浮世絵叢書』などもおすすめです。「喫茶けやき」は美術館の外にも入り口があり、芹が谷公園の散策にも便利です。
展覧会基本情報
自然という書物 15~19世紀のナチュラルヒストリー&アート
会 期:前期 2023年3月18日(土)~4月16日(日)
後期 4月18日(火)~5月21日(日)
※前・後期で一部の展示替えと書籍のページ替えをおこないます。
会 場:町田市立国際版画美術館(東京都町田市原田町4-28-1)
公式HP:http://hanga-museum.jp/exhibition/schedule/2023-516
時 間:10:00~17:00
土・日・祝日は10:00~17:30
休館日 :毎週月曜日(祝日および振り替え休日にあたった場合はその翌日)
入場料 :一般:900(700)円・大学生と高校生:450(350)円
※中学生以下無料
※( )内は20名以上の団体料金
無料日 :開館記念日〔4月19日(水)〕
シルバーデー:毎月第4水曜日 4月26日 ※65歳以上の方は無料
関連イベント(スペシャルトーク BHチャンネル×版美)
2023年4月1日(土) ※視聴無料、生配信後も観覧可能
出演:ヒロ・ヒライ(BHチャンネル主催、ルネサンス学)
橋本麻里(エディター、金沢工業大学客員教授)
山本貴光(文筆家、ゲーム作家)
藤村拓也(本展担当学芸員)